先月、所用で通りがかった際に、美しく咲く桜の花に目を奪われ、しばらくぼーっと眺めていました。
ふと木の下を見ると「天王寺村鋳銭所跡」と記された碑が立っていました。
比較的新しい碑だなと思い裏に回ってみると、平成16年3月に建立されたと記されていました。
並んで説明の看板も建てられていましたので、それを書き起こしてみます。
「江戸時代、このあたりは天王寺村といい、銅銭をつくる工場(鋳銭所)がありました。寛保元年(1741)に、大坂の銀鋳造工場の幹部(銀座年寄)であった商人の徳倉長右衛門と平野六郎兵衛が、幕府の許可を受けてつくったものです。その頃の大坂には、今の淀川区の加島と中央区の難波にも銭の工場があったため、こちらの工場は、天王寺村銭座と呼ばれていました。敷地は約3万6千平方メートルあり、周囲は塀と堀で厳重に囲われていました。多い時には年間20万貫(約2億枚)の寛永通宝をつくったといいます。しかし、工場の支配人の不正などがあったため、営業がうまくいかなくなり、延享2年(1745)には操業をやめました。その跡地には、宝暦2年(1752)に、幕府によって天王寺御蔵(高津御蔵)という倉庫が建てられました。これは道頓堀から高津堀川を通って米を運び、蓄えておくための大きな貯蔵庫でした。寛政3年(1791)に、天王寺御蔵が難波に移転した後は、民間の土地となり、町屋が立ち並びました。 大阪市教育委員会説明看板に記された地図によると、天王寺村鋳銭所が実際にあった場所は、この碑よりも少し南東の一帯だったようです。
多い時には年間2億枚の銅銭がここで鋳造されていたとのことですが、多いのか少ないのかいまいちピンときません。
寛保は暴れん坊将軍の徳川吉宗の治世。
天王寺村鋳銭所を題材にした書籍資料などあれば読んでみたいと探しましたがまったく見当たりませんでした。
どうも、この鋳銭所が操業していた年数の短さ(1741年~1745年)が関係しているようです。
どういう切り口から探ってみようかとウダウダ考えているうちに桜の季節も終わり、鯉のぼりの時期になってやっと見つかりました。
滝沢武雄著『日本の貨幣の歴史』に、ほんの2~3ページですが天王寺村鋳銭所のことが記されていました。
その内容をご紹介する前に、江戸の貨幣の基礎知識を少し書かせて頂きます。
まず、江戸時代の貨幣は大別して金貨・銀貨・銅貨の三種類だということはご存知だと思います。
ただ、ややこしいのはこの三種の貨幣の単位が違うこと。
金貨の単位は、両・分・朱の3通りで、しかも四進法でした。
つまり、1両=4分、1分=4朱ということです。
この単位にもとづいて金貨が作られるのですが、その種類が、大判(10両)・小判(1両)・二分金・一分金・二朱金・一朱金でした。
銀貨の単位は、貫・匁(もんめ)・分・厘・毛です。
1貫=1000匁で、それ以下は十進法でした。
銀貨には丁銀・小玉銀などがあり、それらを組み合わせて秤にかけ、重量で使用していました。それを秤量貨幣と呼ぶそうです。したがって、銀貨は小さく切り分けて使うこともできたのです。
そして銅貨。
単位は貫と文。
1貫=1000文でした。
江戸初期には、明国からの輸入銭である永楽通宝が使用されていましたが、この天王寺村鋳銭所でも鋳造されていた寛永通宝が大量に流通し始めると、次第にこれに統一されたようです。
江戸時代は、領主が農民から農業生産物を年貢として徴収する封建社会だったことはご存知のことと思います。
しかし、別の特徴として、統一国家として全国共通の貨幣制度が施行され、商品の生産流通が広範囲に展開した社会でもあったのです。
よって、支配層にとっては、米価や物価の問題、そして貨幣改鋳の問題が悩みの種となるのです。
支配層が、米価の変動に振り回される様は江戸時代の話につき物ですが、支出の増大も大きな不安定要因でした。
そのことに対処すべく、幕府は金貨銀貨の改鋳を手段とするのですが、これが物価の高騰を招くなどの問題を生じさせたのです。
金貨銀貨を改鋳し、質を低下させることによって、名目的に量を増加させ収入を増やすことを考えたのですが、金貨銀貨の質を落とせば当然銅貨の価値が上がります。
時に銅貨の相場が高騰し、銭で生活をする下級武士や一般庶民の生活を圧迫する結果ももたらしました。
そこで、銅貨の鋳造が活発になっていくわけですが、この天王寺村鋳銭所もそんな時代の流れの中に誕生したのです。
大雑把ですが、金貨と銀貨の鋳造は幕府のみが行い、銅貨に関しては許可を得た民間業者が行う仕組みだったようです。
滝沢武雄著『日本の貨幣の歴史』によれば、天王寺村鋳銭所も、京都銀座年寄の徳倉長右衛門と江戸銀座年寄の尾本吉右衛門の両名が元文3年に願い出て、寛保元年にようやく許可され鋳造が始まったそうです。
大阪市教育委員会の説明看板に記されていた「堀と塀に厳重に囲われ」の部分も滝沢武雄著『日本の貨幣の歴史』に詳しく書かれています。
四方を竹垣で囲い、その内に堀をかまえ、さらにしのび返しをつけた塀をたてて、二重に囲い込み、門は一方口であった。滝沢武雄著『日本の貨幣の歴史』よりそして、天王寺村鋳銭所が操業を止める原因となった不正に関しても触れられています。
どうも、許可を得た徳倉・尾本の名代でこの天王寺村鋳銭所の管理を任されていた者が、遊蕩と米相場に手を出し、幕府から借りていた金子より8500両を使い込み、さらにその他の役職者までが身分不相応な振る舞いをして、2万両ほどの欠損を出してしまったようです。
その責任をとり、尾本は切腹、徳倉は出家、そして両家は身分を召し上げられたそうです。
その名代の遊蕩については
「新町備前屋の万大夫を金八百両にて請出し、船場高麗橋辺の貸座敷に入置て妾となし、召仕ひのもの十人余り付置き、日夜舞台子又は芸子・たいこ持ちを集め、酒宴遊楽に長じ」滝沢武雄著『日本の貨幣の歴史』よりと豪奢な有様だったようです。
鋳銭所の利益がいかに莫大だったかを物語っていますね。
天王寺村鋳銭所で鋳造された銅貨は、裏面に「元」の字があるのが特徴だそうです。
黒門公園で偶然出会った天王寺村鋳銭所跡の碑。
おかげで、大阪らしい銭の話をひとつ知ることができました。
中央区日本橋2-12 黒門公園内 |