2013年5月2日木曜日

大阪市立愛珠幼稚園


大阪市立愛珠幼稚園
先月20日に大阪市立愛珠幼稚園の一般公開があるとのことで行って参りました。
といいましても、子供の入園のためというわけではなく、重要文化財としての愛珠幼稚園の見学でした。
こちらの幼稚園は創立がなんと明治13年(1880年)という歴史ある幼稚園なのです。
現存するこの愛珠幼稚園舎は三代目であり、竣工が明治34年(1901年)です。
しかも、当時の状態とほとんど変わらずに健在であるという貴重なものなのです。
オフィス街の高層ビルに囲まれた風格ある木造和風建築なので、以前からぜひ中を見てみたいと思っていました。
この建物は現在も現役の幼稚園として使用されていますので、こういうご時世ですし、カメラを持って中をうかがうなどできません。
一般公開していただけるのは本当にありがたいです。
しかし、幼稚園長とPTA会長の名前で園内撮影禁止との説明があり、残念ながら中の様子はブログではお見せすることができません。
園児の安全を考慮してという趣旨から考えますと、文字表現であっても内部の間取りを公表するのはまずいかなと色々考えました。
ですので、かなりわかりにくい文章になるかも知れませんが、できる限りこの歴史的建造物の素晴らしさをお伝えしたいと思います。
初代愛珠幼稚園は現在の場所より御堂筋を越えさらに西の今橋5丁目5番地にあったそうです。
豊田文三郎という議員が
「小学校はほとんど全国に普及したが幼児の教育上欠くことのできぬ幼稚園は一、二に過ぎない。当連合町は全国に率先して町立幼稚園を設立し幼児保育の効果を社会一般に知らそう」
と建議したのがきっかけで誕生したのが初代愛珠幼稚園です。
日本全国で幼稚園が1、2しか存在しない時代に、この発想は凄いですね。
初代愛珠幼稚園は戸長役場と民家を修理改造した園舎だったそうで、敷地は376.5㎡ほどだったようです。
東京お茶の水付属幼稚園保母練習科の卒業生を招聘し、かなり好評だったのか創立わずか4年で園児が120名を数え、園舎狭隘のため今橋3丁目(トレードピア淀屋橋の南西)の鴻池善右衛門持家を修理して移転しました。
二代目園舎は敷地が813㎡とかなり広くなりました。
しかし、園舎の構造に問題があり、光線が不足し暗く、冬は寒く、「音響に異常を生ずる等の不便」もあったそうで、運動場はむしろ初代園舎の方が広いといった状況だったそうです。
二代にわたる園舎の不備を正し建築されたのが現在の三代目園舎なのです。
この三代目園舎の原案は、当時の保母が墨画でスケッチしたそうです。
私はここに愛珠幼稚園が明治から現在に至るまで、当時の姿のまま残った理由があるように思います。
現場のプロが原案を作ったわけですから、時代が変わっても園児にとって最適な構造になったのでしょうね。
明治時代といえば、なんとなく堅苦しいイメージがありますが、もしかすると現代以上に柔軟性のある行政がなされていたのではないでしょうか。

井桁と吹寄せの襷格子の門扉
一般公開には多くの見学者が参加されていました。
勝手な印象ですが、どうも重要文化財の見学というよりも、入園を目的とした父兄の見学といった雰囲気の参加者が多かったです。
建物内に入るのに20分くらいは並んだと思います。
おかげで門からじっくり見学できました。
この風格ある門扉は、武家の門に多く用いられた形式だそうです。
向かって右側の通用門は、自動的にしまるように工夫されていたそうで、その時用いられた門開分銅も現存しているそうです。
素晴らしい工夫ですね。
門を入ると整石の敷石が三方に伸び、正面は大寺院を思わせるような堂々とした本玄関に通じています。
その左手の植込みには清水多嘉永志作「植樹の像」があります。

「植樹の像」清水多嘉志作
そして、残念ながら撮影は玄関まで。
玄関から廊下を挟んでメインの遊戯室が見えるのですが、撮影するとまずいかなと思い、玄関の天井まで撮影してデジカメの電源を落としました。
玄関の格天井
外部から見た場合、一番大きな入母屋屋根が遊戯室です。
この遊戯室を写真でお見せできないのが非常に残念です。
言葉ではなかなか素晴らしさを表現できません。
広さは63坪ほどだそうですが、とにかく明るい。
昼間なら照明が不要なのではないでしょうか。
遊戯室の部分は身舎なのですが、西洋の教会のような高窓(クリア・ストーリーというそうです)が三方にあり、ここからの採光が明るさの理由だと思います。
南西北の三面に鉄製の二階式回廊が回っており、支える鉄柱はむき出しのH型鋼です。
メジャーを持っていたので測ってみますと、フランジ幅240mmウェブ高230mmフランジ厚30mmでした。
なにやら刻印されているので必死になって目を凝らして見ると「SEITETSUSHO YAWATA」と陽刻されているではありませんか。
あの官営八幡製鐵所で製造されたH型鋼なのです。
高さのある天井は、玄関と同じく格天井となっていて、和風のアクセントとなっていました。
東側壁面には明治34年から変わらず時を刻み続ける大時計が懸かっています。
本当に、よく戦災に遭わず残ってくれたと感謝したいです。

遊戯室を出て廊下を渡ると摂生室という部屋があり、そこが唯一畳敷きの部屋でした。
摂生室という名前から推察して医務室みたいなものでしょうか?
床の間もあり、医務室のイメージとはかけ離れたものでしたが、ここには「成人在始」と書かれた書が飾られていました。
張賽という清国の人物(後の清国農商部総長)が、愛珠幼稚園に来園し贈った書だそうです。
海外の要人が視察に訪れる先進的な施設だったということですね。

その他にも面白かったのが、トイレが独立した造りになっていたことです。
独立しているので明るく通気が良い。
外側から見るとちょうどこの部分だと思います。

本当に子供のために考え抜かれた設計になっていますね。

運動場は、コの字に回る園舎の廊下に囲まれ、ちょうど中庭のような感じです。
ここにも工夫がされており、運動場とそれを囲む廊下の高さが同じなのです。
バリアフリーですね。
高さが同じという事は、運動場は盛り土ということです。
排水などを考えると、建物の基礎にも相当な工夫がなされていると想像できますね。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」の一節に
「明治維新によって日本人は初めて近代的な「国家」というものをもった。誰もが「国民」になった。 不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。 この痛々しいばかりの昂揚が分からなければ、この段階の歴史は分からない。」
とありますが、その昂揚がこの愛珠幼稚園から強烈に感じられた気がしました。

一般公開は年に二度ほどあるそうです。
一般公開時でなくても、この簓子下見板張の高塀の周囲を歩くだけで雰囲気は楽しめると思います。

明治の船場の心意気がしのばれる名建築だと思います。

2013年4月10日水曜日

岸本瓦町邸

松屋町筋から西へ東横堀川にかかる大手橋を渡ると、目の前にクリーム色の風格ある邸宅があります。
その英国調の堂々とした建築物は、大手橋を渡る者の関心を必ずひくでしょう。
岸本瓦町邸
岸本瓦町邸。
昭和6年(1931)に鉄鋼商の岸本吉左衛門の本邸宅として建築されたそうです。
平成10年に登録有形文化財として登録されております。

この建物だけをじっと眺めていますと、どこか外国にいるような錯覚に陥ります。
ぜひ建物の中も拝見したいのですが、現在も事務所として使用されているそうで。
建築主の岸本吉左衛門が美術コレクターだったこともあり、中には貴重な美術品も保管されているとのこと。
なるほど、窓という窓にシャッターが装備されているわけです。

石貼りの外壁は「竜山石」が使用されています。


間近に見ますとこの外壁、指で削れそうなほど柔らかな風合いと淡い色合いがなんともいえません。
「竜山石」に関してはこちらのサイトに詳しく紹介されています。
石の文化を創り続ける「竜山石」
住友銀行本店ビルにも同じ竜山石が使用されているのですね。

もっとこの邸宅について知りたいのですが、私の探し方が悪いのか、なかなか詳しい資料にめぐり合いませんでした。
ですが、建築主である岸本吉左衛門についてはその自伝を読むことができました。
「鐵屋のぼんち」「続・鐵屋のぼんち」と題された自伝なのですが、本当に面白かったです。
明治・大正・昭和初期が大阪商人の目から描かれており、政治、経済、風俗、名士との交流、海外の様子、商売での苦闘、人生哲学、果てはお菓子の話からホテル談義まで。盛りだくさんの内容でした。
それだけにご紹介したい事がたくさんあるのですが、書ききれる量ではないのでほんのさわりだけご紹介致します。

明治末期・大正初期のイギリス中流家庭や大阪船場の商家の食事とは、どのようなものだったかご存知でしょうか?
「鐵屋のぼんち」に記されていた内容を少しご紹介致します。
岸本吉左衛門は洋行の際、イギリスの中流家庭に滞在されたようです。
そこで経験した家庭料理とは。
  • 朝食・・・必ずポリッヂがでる。英国ではオートミルとは言わない。ポリッヂという。英人でも砂糖とミルクをかける人が多いがスコットランドでは塩を用いる人の方が多いらしい。英国では朝の食事と午後のお茶の時に限りこのブレッドエンドバターと一語で言い切る特種品がある。薄く切ったパンに一面に薄くバターをぬり、これを朝食には大皿に盛り上げて各自が自分のパン皿に取り、ママレードをつけたり、又ヂャムをつけたり、又そのまま食い、次のベーコン・エッグの一皿と共にこれだけの朝食を食うのは欧州でも英国だけの特別慣習らしく、私も初めはポリッヂだけか卵だけで御免蒙ったが慣れてくると英国からパンとコーヒーだけの常朝食の国へ行くと物足りなく感じるのであった。英国では朝食は大体コーヒーではなく紅茶らしい。
  • 昼食・・・主婦など家庭の者は昨夜のデナーの残りとか、チーズとパン位の軽食、外勤者はこれ又軽食が多く、ABCという軽食屋がいたるところにあり、ノーチップの女給さん、食物はパン、スコーン、パター、チーズ、肉類は精々1~2種、ステーキアンドキドニーパイか、マトンシチウ位のもの。飲み物は牛乳、紅茶、コーヒー。又このABCのアップルパイは大型でこれひとつで昼食代りにする人も多い。
  • 夕食・・・大体7時か7時半、スープのある夜もあるが一品とデザート、一週六夜の過半はマトンで、あとは豚、トリ、サカナ。デザートは子供たちが満腹感を得る物が多い。アップルパイ、タピオカプデング。カスタードソースといのが牛乳、卵、メリケン粉で一寸生クリームの感じを出してある。子供たちはこれを大皿にとる時こぼれますよ、とよくお母さんに叱られる代物である。
よくイギリスの料理は不味いと聞きますが、こうやって文章を読むとよだれが出そうになります。
大英帝国の家庭料理ですので、これが当時の世界で一番贅沢な食事と言えるのではないでしょうか。
そして同時代の日本。
船場の商家の食事風景です。
  • 朝食・・・船場と限らず、大阪の商家の朝食といえばオコーコ、即ち沢庵と飯だけというのが普通であり、関東のように朝食は味噌汁というのは大阪にはあまりなかったらしい。主人側、奉公人、両方で二十何人という大家族の飯の分量は飯炊きの朝食を前夜の残り、即ち冷飯ですませるか、又朝早く炊かねばならぬか、奉公人数人の出入りによっても違うが朝食は冷飯でも皆だまっていた。
  • 昼食・・・昼はお惣菜一種。だしジャコか、油揚げ、が味の素で菜っ葉、大根、かぼちゃ、白瓜、おあげさんと称する油揚げと豆腐、高野豆腐、コンニャク、メイと称する関東のヒヂキに似たもの等、これらの繰り返しで家によっては16とか27とか大体食物を決めている家もあり、豆腐の味噌汁の日もあれば、コンニャクを細く切り汁に入れ、ショウガのしぼり汁をきかせたものなどは今も僕の郷愁をそそる。
  • 夜・・・夜は若干ご馳走で、英国のデナーにあたるといっても商家のお惣菜といえば魚といえばアジ、サバ程度。当時の大阪にはグチという五六寸の魚があったが現今は見かけない。16とか1日と15日とか赤飯を炊く家、番頭さんだけに一本お酒のつく家、私の家では倉方という肉体労働の専門家連中はこの恩点に浴していた。昼は主人側も奉公人と食事を共にする家が多いが、夕食は主人側は一族だけ奥の座敷で女中のお給仕で食事となる。
どう思われますか?
肉がまったく登場しません。
牛丼をいつでも食べられる現代日本は本当に幸せですね。

岸本吉左衛門という人物は、曽祖父の泉屋吉右衛門のころから続く鉄を扱う商家の跡取りでした。
それで自伝が「鐵屋のぼんち」なのですね。
日清日露戦争で鉄生産に目覚めた日本。その後の第一次世界大戦による鉄需要で鉄成金・船成金が出現したことはご存知だと思いますが、その鉄成金に名を連ねたのが岸本吉左衛門その人です。
当時の鉄の価格を参考にして下さい。

第一次世界大戦は1914年から1918年にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦ですが、特に終盤の2年間の銑鉄価格の高騰が凄まじいですね。

「銑鉄」というのは、鉄鉱石を石炭・石灰・マンガン鉱石などを使い還元したものをいいます。
この銑鉄を使って製鋼するのが製鋼業です。
岸本吉左衛門が経営していた岸本商店は、この銑鉄を主に英領インドから輸入する会社でした。
インドの鉄鉱石は鉄の含有量がとても高く、よって石炭などの他の原料も少量で済むのでとても安価でした。
しかし、日本は日露戦争後、大陸に進出し鉱山を開発などするわけですが、そこに資源に関する対立が生まれたのでした。
質・価格ともにインド銑鉄に勝てない大陸資源を扱う財閥系企業は、カルテルを結成してインド銑鉄に対抗します。
「銑鉄も日本の勢力圏内で調達すべきだ!欧米からの輸入に頼っていたら有事の際にどうする!」というわけです。
岸本吉左衛門は、インド銑鉄の輸入業者として槍玉にあげられました。
岸本吉左衛門曰く「一朝事あらば海外から銑鉄は輸入できないと仰せられるが、銑鉄の輸入が出来なくなればその4倍もの鉄鉱石と石炭の輸入は一層困難、否不可能となる。これは子供でもわかることである。」
なんとなく、現代のTPP交渉参加問題にも通じるものがありますね。
事実、その後の太平洋戦争で通商破壊を受けた日本は、極度の物資不足に陥りました。
カルテル側が、重い関税をかけるよう政治力を使ったり、ありとあらゆる手を使ってインド銑鉄を日本から駆逐しようとする中で、必死に対抗する岸本吉左衛門ですが、結局インド銑鉄は日本から追い出されてしまい、そしてご存知のように日本は英米との対決への道に進んでいくのです。

岸本吉左衛門が自伝の中で

「私は思う。満州投資を印度へ投入していたら、印度の製鉄へ日本の力を政府が本腰を入れていたら、大東亜戦争なるもの、大きく言えば亜細亜の地図、現在のものとは違うのぢゃないか。」

と語る一節があるのですが、政治家とはまた違った、国家の運命を左右する資源を扱ってきた商人の重い言葉だと感じました。

岸本瓦町邸から思わぬ面白い本にめぐり合えたのは実に幸運でした。
明治・大正・昭和という激動の時代を船場商人が語るという、普通の歴史書とはまた違った景色が見えた気がします。

大阪市中央区瓦町1丁目2番1号

2013年3月13日水曜日

住友銅吹所

自転車で心斎橋に向かう際には、松屋町筋から交通量の多い長堀通に左折せず、もう一本南側の道をよく使います。
その際、島之内の町内に入るとすぐに、かなり大きなビルとその敷地内の綺麗に管理された小さな公園が目に付きます。

大きなビル

小さな公園
その小さな公園には、土蔵のような洋風の小屋のような、言葉では表現しづらい和洋折衷の建物が建っています。

ビルの方は、三井住友銀行鰻谷センターだそうです。
公園の方はと自転車を降りて周囲を歩いてみると、ありました。
「住友銅吹所跡」という碑が。

説明の看板も銅板でしょうか?風格がありますね。
住友家が銅で財を成したということは知っていましたが、ここがその本拠地だとは知りませんでした。
しかも、日本の生産量の3分の1をここで生産していたとは驚きです。
江戸時代の大阪には、銅の精錬を行う銅吹屋や銅を扱う商人のほか、加工職人も多く住んでいたようです。
特に、この島之内周辺には銅吹所が多く、北の天満には銅細工職人が集まっていました。
長堀通は今でこそ幹線道路になっていますが、江戸時代は文字通り「堀」でした。
インゴットになった銅を運搬するのに、長堀という運河が便利だったのでしょうね。
そして、この周辺はその昔「鰻谷」と呼ばれており、名前から察するにウナギが獲れるような都市周縁部だったようです。
今でも東心斎橋あたりで「鰻谷町内会」という名の町内会がありますし、心なしか鰻屋さんも多いように思います。
銅の精錬は火を使いますし、騒音も出るでしょうから、そのような都市周縁部の新開発地に精錬所ができたのだと想像できます。
嘉永期の泉屋住友本宅図
三井住友銀行鰻谷センターの北側壁面には、上の写真のような古文書のコピーがガラスのショーケース内に飾られずらりと並べられています。
主に「鼓銅図録」という住友家が作成した銅精錬についての書物に描かれた図が展示されているのですが、それがなかなか見ごたえのあるものなのです。
銅山で採掘された銅は、山元で純度90%程度の「荒銅」に精錬され、大坂で純度99%以上にまで精錬されます。
その採掘から棹銅と呼ばれるインゴットになるまでの工程を、江戸時代の絵師によって詳しく描かれているのです。
間吹図
上の迫力ある絵を見ても、当時の精錬作業は相当危険なものだったという事がわかりますね。

公園内には当時の炉が展示されています。
銅吹所の炉
下の絵のように使われていたのでしょうか。
南蛮吹

展示されている絵図にはそれぞれ現代語の説明文もありますので、精錬の概略を知りたい方にはオススメです。
江戸時代の鎖国日本において、対オランダ貿易における銅の割合は、1757年にはなんと93%を占めていたそうです。
輸出された銅は欧州にも運ばれ、その量は1670年代に当時の欧州で最大だったスウェーデン銅の3分の1~2分の1にまで達するほどだったとのこと。
アダム・スミスの「富国論」にも「日本の銅は欧州の銅価格に影響を与えるだろう。」と指摘されています。
鎖国しているはずの日本が欧州の経済に影響を与えていたなんて。
そして、その銅がこの大坂で生産されていたのですから、天下の台所の名は伊達じゃなかったのですね。

そして、公園の東側に位置する和洋折衷の気になる建物。

瓦葺なのにドアや窓は洋風という、面白い趣きの建物です。
特に南側の入り口が面白い。

明治9年に銅吹所が廃止された後、ここは住友家の邸宅として使われたそうです。
そしてこの建物は、ビリヤード場だったのです。

説明看板によると、このビリヤード場は独立建物のビリヤード場としては、わが国最古のものだそうです。
側を通る度に面白い建築物だと思っていましたが、そのような貴重なものだったとは。

こちらの公園はとても綺麗に管理されており、日当たりも良いので、気候が良い日にはこのビリヤード場を眺め、住友家邸宅の庭園を想像しつつ、お昼を食べるのも良いかもしれませんね。

住友銅吹所跡周辺図

2013年2月25日月曜日

懐徳堂

富永仲基「出定後語」、山片蟠桃「夢の代」、上田秋成「雨月物語」。
この江戸時代の人物がどういった人で、その著作物がどういった内容なのか、まったく理解しないまま、とにかく日本史の教科書に載っているキーワードとして、何度も紙に書き頭に詰め込んだ記憶があります。
この3人を結ぶのが「懐徳堂」です。
その「懐徳堂」とは何か?
井原西鶴の墓がある誓願寺を訪れた際に、このような碑が建っていました。
誓願寺 門横の碑
「井原西鶴先生墓」の他に「波華懐徳堂」や「中井甃庵先生墓」「同 竹山先生」「同 履軒先生」と刻まれています。
寺内では、「懐徳堂と中井家」と題した説明資料がありました。
懐徳堂は、江戸時代中期の享保9年(1724)に大坂の有力な町人たちによって建てられた学校である。
資料に記された「懐徳堂」の説明です。
先に書きました富永仲基、山片蟠桃、上田秋成は、この「懐徳堂」で学んだ門人なのです。
誓願寺の説明資料を読み、興味が沸いたので少しばかり調べてみましたが、この「懐徳堂」はとても奥が深い!
現在も哲学、思想、歴史分野の高名な教授が研究し続けている「懐徳堂」を、少しかじった程度で理解することは不可能だと思いましたが、同時に大阪の歴史を知る上で、必ず押さえておかなければいけない重要なものだとも感じました。

私が心惹かれた「懐徳堂」の特徴は
  • 町人によって作られ運営された学校
  • 江戸時代とは思えない自由な精神
  • 知のネットワークの広さ
この3点です。

江戸時代の学校には
・民間の学者等が個人で開設し門人を教育した「私塾」(緒方洪庵の適塾、シーボルトの鳴滝塾等)
・藩校と寺小屋の中間的役割を担ったとされる「郷学」(岡山藩の閑谷学校等)
・藩士教育のために藩が設立した「藩校」
がありました。
「懐徳堂」は、当初民間の力のみで創設され、2年後に江戸幕府から学校として公認されるという、半官半民の特徴ある学校でした(よって大阪学問所とも呼ばれた)。
「懐徳堂」は、5人の有力商人の出資により創設されました。
三星屋武右衛門、道明寺屋吉左右衛門、舟橋屋四郎右衛門、鴻池又四郎、備前屋吉兵衛の5人の大坂商人は「五同志」と呼ばれ、「懐徳堂」を創設したのみならず、商人としての才能を生かして基金を運用し、「懐徳堂」の財政を支え続けました。
「懐徳堂」の運営は、学務と校務に分担され、学務の最高責任者を「学主(のちに教授)」といい、校務の最高責任者を「預り人」と呼ばれました。
五同志は、初代預り人となる中井甃庵と図り、三宅石庵を初代学主として迎え、その140年余りの歴史をスタートさせたのです。
二代目学主の中井甃庵以降は、中井家の関係者が学主・預り人を就任することになるので、私塾的な性格もあったように見えます。
誓願寺の説明資料にあった中井家略系図が歴代学主・預り人の説明にもなるので、それを参考にすしたいと思います。
私の仕事柄、相続関係説明図を作ることがあるので、その要領で少しアレンジし引用させていただきました。

「懐徳堂」は、学舎のあった地名にちなみ別名「今橋学校」とも呼ばれ、現在の中央区今橋四丁目(旧尼崎一丁目)にありました。
初期の頃の建物は寛政4年(1792)の大火によって類焼したのですが、図面は大切に残されていたようなので、今でも当時の学舎の様子を知る事ができます。
懐徳堂絵図屏風
「大坂尼崎町一丁目学校類焼前之図」をCADで描き写してみました。
かなり乱雑なものですが、なんとなく当時のキャンパスライフの雰囲気を感じていただけたら幸いです。


懐徳堂旧阯碑は現在日本生命本社ビルの南壁面にありますが、これは昭和37年(1962)にビル新築に伴って移転された場所であり、本来の「懐徳堂」校舎跡ではないそうです。
懐徳堂旧阯碑
碑文右側に記された由来
碑文は漢文で刻まれており、私にはほとんど読めませんので、湯浅邦弘教授編著「懐徳堂事典」より引用させていただきます。
懐徳堂は一に大阪学問所と称す。享保十一年、甃庵中井先生、同志五人と官に請いて此に創建せるものなり。石庵・蘭州・春楼・竹山・履軒・碩果・寒泉・桐園の諸先生相継いで学を講じ百四十余年を経たりしが、明治二年堂廃せられ鼓筐(こきょう)の迹(あと)を絶ちしこと四十余年なりき。大正五年士人胥謀(あいはか)り東横堀川の上(ほとり)に重建し、古を参じ今を酌み弦誦復興せり。是に於て石を旧址に樹て後人をして矜式(きょうしょく)する所有らしむ。 大隈西村時彦撰 浪華中井天生書 日本生命株式會社建
由来にも記された「大阪文教の中心」であった「懐徳堂」。
その「懐徳堂」の学問は何か?
高名な研究者が今もそれを追及し続けているわけでして、私ごときが理解する事は不可能です。
また、140年余りの歴史があるので、教えていた学問の傾向も時代により変化していたようです。
朱子学を基本としていたようですが、初代学主の三宅石庵は雑学的傾向があり、「鵺(ぬえ)学問」と揶揄されることもあったようです。
その初代学主の雑学的傾向が影響したのか、それとも商都大坂の気風なのか、「懐徳堂」は朱子学に固執せず、合理的思考で諸学の長所を柔軟に取り入れる自由な学風を形成していました。
そして、何より特筆すべきはその学則です。
定約や定書や壁書と称された学則に相当する規則からは、江戸時代とは思えない先進的な思想が窺えます。
例えば、受講生の受講料は五節句ごとに銀一匁または二匁と定められていたのですが、貧苦の者は「紙一枚、筆一対」でもよいという緩やかなものでした。また、書物を持たない者も聴講を許されていました。
現代の義務教育制度や高校無償化制度に通じるような、この教育に対する責任感はすごいと思いませんか?
席次については、武家は上座と規程していますが、但し書きで、講義開始後に出席した場合は、武家と町人との区別は無いとしていたのです。
厳しい身分制度の江戸時代に、このようなことが許されたというのが驚きです。大阪だから特別だったのでしょうか?
商人は利益を追求するので、どうしても悪く言われがちです。
厳格な武士の時代である江戸時代などは、それこそ批判の的だったでしょう。
しかし、その商人がこれだけ熱心に学問の場を盛り上げたのは、算盤勘定だけでは商売は成り立たないと考えていた証拠だと思うのです。
自らを学問で律し、庶民にも学問を通じて広く倫理道徳を学ばせようとする大坂商人の自主自立の精神は、現在のこの国の商人には受け継がれているでしょうか?

「懐徳堂」は、初代預り人であり二代目学主中井甃庵の2人の子供、竹山・履軒の時代に黄金期を迎えます。
その黄金期は、江戸幕府官営の昌平坂学問所と並び称されたそうです。
中井竹山は学主・預り人として表舞台で活躍し、二歳年下の弟中井履軒は研究者として独創的な研究を生み出していきました。
この2人は、多くの著作物や資料を今の世にも残してくれています。
儒学だけでなく、政治、経済、文学、果ては天文学に至るまで幅広い分野の学問を追及していたようです。
中井竹山が学主兼預り人に就任した後すぐ、あの「白河の清きに魚も住みかねて~」で有名な松平定信が老中首座に就任するのですが、その松平定信が来坂した際、中井竹山に諮問をしているのです。
そもそも幕府の老中が、半官半民とはいえ実質民営の市井の学者に諮問するということ自体異例中の異例でして、そのことが当時の中井竹山の評判がいかに高かったかを物語っていますね。
その諮問を中井竹山が「草茅危言(そうぼうきげん)」という本にまとめ、松平定信に献じたことにより、寛政の改革に多大な影響を与えたと言われています。
そして、門下からは近代的英知として高く評価される「夢の代」を著した山片蟠桃が出ています。
あの大塩平八郎も「懐徳堂」で中井碩果から句読(くとう)を学んでいたとのこと。
門人だけではなく交友も含めると、江戸時代の知のネットワークの中心と言っても過言ではない存在がこの大阪にあったという事実が、江戸中心に歴史を見ていた私に鮮烈な印象を与えてくれます。
「雨月物語」を著した門人の上田秋成が、「胆大小心録」という随筆で「懐徳堂」で学んだ体験をまとめているのですが、面白いことに、竹山・履軒のことを強烈に貶しているのです。
「今の竹山・履軒は、このしたての禿じゃ」(今の竹山・履軒は、この人五井蘭州が仕立てたこわっぱじゃ)
「竹山は山こかしと人がいふ。山はこけねど、こかしたがった人じゃ」(竹山は山をこかすほどの人物と言われるが。奴が山をこかしたなど聞いたことがない。)
などと色々悪口を書いているのです。
この上田秋成は、竹山・履軒と机を並べて「懐徳堂」で学んでいたので、2人の名声を妬んだというよりも、同級生に対し互いに笑える毒を吐いたのかも知れませんね。

幕末の動乱期、ロシア軍艦ディアナ号が和親条約締結を求めて大阪湾に入港するという事件がありました。
その際、「懐徳堂」学主(教授)の並河寒泉と預り人の中井桐園が幕府の命により、ロシア側と漢文で筆談交渉をしているのです。
このような未知との遭遇に際してお呼びがかかるということは、幕末においても大坂の知の最高峰が「懐徳堂」であると幕府が認識していた証拠ではないでしょうか。
そのような「懐徳堂」も終焉を迎えます。
明治維新は新たな時代の幕開けでありましたが、同時に旧来の学問文化の継承には大きな打撃となったのです。
明治2年、「懐徳堂」最後の学主(教授)並河寒泉は「出懐徳堂歌」と題する歌を門に貼り、「懐徳堂」を去りました。
「懐徳堂」が閉校してから40年後の日本は、西洋文明を上手く取り込み繁栄していました。
しかし、その陰で精神的な支柱も見失いつつあったようです。
そういった危機感から、「懐徳堂」で講じられていた倫理道徳の復活を目指して中井家子孫の中井木菟麻呂(つぐまろ)らが運動し、大阪の財界言論界の支援により復興へと動き出したのです。
大正2年(1913)に財団法人懐徳堂記念会が設立されました。
発起人には、当時の大阪府知事や大阪商工会議所会頭の土居通夫、住友銀行社主の住友吉左衛門、鴻池銀行社主の鴻池善右衛門等錚々たる顔ぶれが並んでいました。
大正5年には東区豊後町(現中央区本町橋のマイドームおおさか)に重建懐徳堂という学舎が建てられ、そこで大阪市民のための講義が行われたのでした。
残念なことに、この重建懐徳堂は大阪大空襲によって焼失してしまいました。
しかし、書庫は焼失を免れ、その中に収められていた貴重な蔵書約3万6千点は現在大阪大学で大切に保管され研究が続けられています。
平成12年(2000)には「懐徳堂」資料の電子情報化が始まり、現在もデータベース化の努力が続けられているそうです。
懐徳堂記念会HP


懐徳堂旧阯碑付近図

2013年2月13日水曜日

井原西鶴

井原西鶴像(生国魂神社境内)
関西商品取引所が昨日12日、国内で唯一コメ先物取引を扱う取引所となり「大阪堂島商品取引所」と改称したというニュースがありました。堂島の名称は実に74年ぶりの復活だそうです。
1730年(享保15年)に堂島で始まったコメ先物取引は、デリバティブ取引の起源とされています。
その頃より少し遡った元禄時代の偉人であり、教科書の有名人でもある井原西鶴の史跡を訪ねました。(訪ねたといいましても、ほぼ通勤ルート上なのですが。)

井原西鶴文学碑

大阪府行政書士会中央支部の総会やその他イベントでよくお世話になっております本町橋のシティプラザ大阪の西側、ちょうど阪神高速道路の本町出口を降りたすぐ横の植え込みの中に、井原西鶴文学碑が建っています。
黒御影石に刻まれているのは、世界初の経済小説と言われる『日本永代蔵』の一説が刻まれています。



井原西鶴文学碑文

その文学碑の台座の部分には、井原西鶴の生涯についての説明文が刻まれていましたのでここに紹介致します。
井原西鶴、本姓平山氏通稱藤五
寛永十九年(西暦一六四二)大阪の富裕な町人の家に生まれたが、俳諧師として世に立ち、晩年は専ら浮世草子に筆を執った。俳名初め鶴永、後西鶴と改む。談林の祖西山宗田門人、軽口狂句を得意とし、一夜一日二萬三千五百句獨吟の記録を樹てた。しかし西鶴の名を不朽ならしめたものは、その小説の作である。處女作好色一代男を初め好色五人女・好色一代女・男色大鑑・本朝二十不幸・武道傅来記・日本永代蔵・世間胸算用・西鶴織留等およそ二十三部の小説は、獨得の俳諧的文章を以って元禄時代の世相風俗を活冩するばかりではなく、時空を超えて普遍的な人間の営みの姿と心のかなしさをよく傅へ得て明治以後のわが国近代小説に大きな影響を興へまた英・獨・佛・ソ各国語に飜譯せられて、世界文学の代表的作品として高く評価せられている。元禄六年(西暦一六九三)八月十日、五十二歳を以って歿した。      芳名仙皓西鶴。墓所は南区上本町四丁目誓願寺にある。
少し調べてみますと、生まれに関しては諸説あるようですね。
遠いところでは和歌山県の日高川町役場のホームページに、日高川町が井原西鶴生誕の地だと紹介されています。
日高川町HP西鶴記念交流館
そして、驚くべき話は、一昼夜で2万3500句の俳句を吟じたとい記録です。
これはもしかすると、呼吸をするたびに俳句を読むようなペースでないと達成できない記録ではないでしょうか?
この記録を樹立したのは、1684年(貞享元年)摂津住吉社頭においてなのですが、それ以前にも大坂生玉寺内で一日一夜4000独吟など達成しているのです。
井原西鶴が入門した西山宗因の一派は談林派と呼ばれ、このような奇抜な興行を特徴としていたようです。
井原西鶴はまず、俳句の世界で華々しくデビューしたわけですが、そこから浮世草子にどう結びつくのか。
俳諧は、当時の旦那衆の間で流行っていた文化でした。
当然、そういった旦那衆の集まる文化サロンには最新情報が集まりやすく、浮世草子のネタも集まるという寸法だったのではないでしょうか。
加えて、時代背景もあると思います。
1671年に河村瑞賢が東廻航路を開き、翌年には西廻航路も開通します。
日本各地のコメが大坂に集まり「天下の台所」と言われる時代の幕開けだったのです。
鴻池や住友が頭角を現すのもこの頃で、江戸時代の「高度成長期」でした。
当然、ネタも豊富だったわけです。
『日本永代蔵』の中にも、北浜に荷揚げされる年貢米を検品する際にこぼれ落ちた米粒をかき集めて日々の糧としていた老女とその息子が、大名相手に金を貸すほどの大商人に出世する物語が描かれています。大坂ドリームですね。
こんなネタがあるのですから、なるほど浮世草子も書きたくなるわけです。

所変わって、谷町3丁目2番の歩道の植栽には、井原西鶴終焉の地を示す碑が建っています。

谷町筋に面し、交通量も人通りも多い場所ですが、この歩道を歩く方々は気づいているのでしょうか?
私はこの場所を数え切れないほど通りましたが、恥ずかしながらその存在にまったく気づいていませんでした。
「此界隈井原西鶴終焉之地」と角石柱に記されています。
石碑にはこのように刻まれていました。

碑表
難波俳林松寿軒西鶴 世辞 人間五十年の究りそれさへ我にあまりたるにましてや浮世の月見過ごしにけり 末二年 元禄六年八月十日五十二才

碑陰
元禄六年八月十日井原西鶴はこの地谷町三丁目(旧錫屋町)東側で没した。享年五十二歳。西鶴没後三百年を記念して、この碑を建てる。
平成五年九月二十五日
西鶴文学会
こちらの石碑を建てる際には、かなりの苦労があったようです。
西鶴文学会が建碑運動に乗り出したのが昭和45年、そして西鶴290回忌にあたる昭和57年に建立すべく大阪市と粘り強く交渉しつづけたのですが、位置が谷町三丁目交差点東南角地で交通妨害になるという理由から断念せざるを得なかったそうです。13名の建碑発起人は、開高健・富士正晴・藤沢桓夫・足立巻一という錚々たる顔ぶれであったにもかかわらず。
そして、西鶴没後300年を記念して、今度こそ!と大阪市と交渉を重ね、やっと認可され建立されたのがこちらの記念碑なのだそうです。
角石柱には他にも、1968年ユネスコにおいて井原西鶴が世界偉人の1人に選ばれた事や、「大晦日さだめなき世の定めかな」と井原西鶴の俳句が彫り込まれています。
大晦日さだめなき世の定めかな
『世間胸算用』は、大晦日の金にまつわる話ばかりを集めたという面白い形式の浮世草子ですが、その中にも「世の定めとて大晦日は闇なる事」という一節があります。
私たち現代に生きる者にとっても、これは重い言葉ではないでしょうか。
著しい経済発展と過当競争の元禄時代の町人達が、年を越すために金銀に翻弄されながらも力強く生き抜く姿は、現代の物語に仕立て直しても違和感は無いと思います。

ところで、井原西鶴が没した地が「鑓屋町」だと記した文献が数多くあります。
一方、こちらの碑文には「谷町三丁目(旧錫屋町)」と刻まれています。隣接していますが、鑓屋町と谷町三丁目は別の町です。
どちらが正しいのでしょうか?
作家の桝井寿郎氏が、大阪春秋第67号の中で以下のように考察されていました。
西鶴没後に出版された「西鶴名残の友」の文中に、西鶴庵の様子が西鶴自身の手によって記されているのです。
その中に、「南となりには・・・」「北隣には・・・」と書かれている部分があるのですが、そのことにより、井原西鶴が没した西鶴庵は南北筋に面した場所だったとわかるとのこと。

赤印は井原西鶴終焉の地石碑
南北筋の谷町筋に面しているのは、鑓屋町ではなく谷町三丁目(旧錫屋町)です。
よって、西鶴が没した西鶴庵は、現在石碑が建っている場所にあったのではないかというわけですね。
説得力があります。
しかし、このあたりの区画は元禄時代から変わっていないのでしょうか?
古地図があれば見比べてみたいですね。


そして、次なるは井原西鶴の墓所、上本町西4丁目にある誓願寺です。

誓願寺
門を入りますと左手に、武田麟太郎の著した「井原西鶴」の一節で誓願寺が登場するくだりが刻まれた文学碑が建立されています。
武田麟太郎文学碑
奥に進むと墓地になっているのですが、井原西鶴のお墓は・・・すぐにわかりました。
墓地の入り口の真正面奥に位置するので、とても目立ちます。
墓には戒名の「仙皓西鶴」が彫られています。
このお墓、建立されしばらくしてから所在が不明になっていたようなのですが、一説によると井原西鶴に傾倒した幸田露伴が、無縁墓地に混じっていたのを発見したとのこと。
墓を建てたのは、北条団水という井原西鶴の後を継いだお弟子さんなのですが、この北条団水という人物。実は井原西鶴作品の大半を書いた張本人だという説を、森銑三という方が提唱しております。
このような刺激的な説が飛び出すのもまた、井原西鶴の魅力でしょうか。
井原西鶴をひもとけば、目の前に江戸時代が見え、同時に今を生きる人々までも見えてくる。なのに、森銑三説が飛び出すようなどこかしら謎めいた雰囲気も併せ持つ。
だからこそ、幸田露伴を初めとして、多くの文豪や学者を魅了し続けているのでしょうか。

最後に、墓の傍らに建つ文学碑に刻まれた井原西鶴直筆の句を紹介して終わりたいと思います。
鯛は花は 見ぬ里もあり 今日の月

2013年2月5日火曜日

生駒ビルヂング

幼い頃、公営団地で育った影響か、レトロな建築物が大好きなのです。
このブログをダシにして、大阪の古き良き時代の建築物を見て回りたいなと思い、検索してみると、このようなイベントが開催中でした。
「船場レトロ建築スタンプラリー」

船場レトロ建築スタンプラリーのスタンプ台紙
船場のレトロ建築をめぐって、豪華商品をもらおう!!ということで、1月26日から3月24日まで開催されています。
私の事務所から目と鼻の先の大阪商工会議所で応募はがきと地図が配布中との情報を得、早速頂いてまいりました。
大阪商工会議所の中でウロウロしていると、職員の方が声をかけて下さり、わざわざ窓口の地域振興部まで案内して下さいました。お忙しい中、とても親切な対応をしていただき本当にありがとうございました。
中央区内には私的に気になるレトロ建築が多くあるのですが、その中で一番にここに書きたいと思っていたビルが・・・ありました。スタンプラリーにエントリーされています。

生駒ビルヂング

堺筋に面し、ビジネス街のど真ん中でひときわ存在感を放っているレトロ建築です。
大阪商工会議所でいただいた船場建築マップは、所在と建物の説明が写真付で掲載されていましたので、生駒ビルヂングの概要をそこから引用させていただきます。
旧称 生駒時計店
1930年築(2002年改修)
設計 宗建築事務所(改修設計Y‘s建築設計室)
構造RC(鉄筋コンクリート)造 地上5階地下1階
昭和5年に建築されたビルなのですね。
現在、生駒ビルヂングにはコンシェルジュオフィス北浜T4Bというレンタルオフィスが入居しています。そちらの受付の方が、ご親切にもつい最近まで開催されていた別のイベントの近代建築散策MAPを下さいました。快く対応下さりありがとうございます。
そのコンシェルジュオフィス北浜T4Bのホームページに生駒ビルヂングの歴史や見どころが詳しく紹介されています。
コンシェルジュオフィス北浜T4Bのホームページ

壁面のスクラッチタイルとテラコッタが特徴と紹介されています。
このスクラッチタイルは間近で見ると、表面の凹凸がかなり激しく、そして釉薬が贅沢に厚くかかっていることがよくわかり、これがビル全体の独特の雰囲気をもたらしているのだなと納得できます。

北側壁面のスクラッチタイル
中ノ島の中央公会堂が竣工したあたりを境に、明治時代を彩った赤煉瓦の建築物は途絶えてしまいます。大正12年(1923年)の関東大震災の時に、多くの煉瓦造の建物が被害を受けたのが影響したのでしょう。
そして、アメリカが生んだ建築の巨匠フランク・ロイド・ライトが旧帝国ホテル設計のために来日し、そこで使われたのがスクラッチ煉瓦だったので、大阪でも続々とスクラッチタイルを取り入れた建物が建設されたようです。
スクラッチタイルの流行は大正14年(1925年)から昭和10年代前半まで続き、その時期はちょうど大阪が人口も面積も日本第一の都市となった「大大阪時代」と一致します。
そして、そのスクラッチタイルの色はたいてい黄から茶系統の色であったそうです。
この頃の大阪は工業化が進み、「大大阪」と呼ばれると同時に「煙の都」とも呼ばれていました。煤煙で建物の外壁が汚れやすく、そういった理由からも茶系統のタイルが主流になり、同時にそれが大阪の繁栄を示す色となったのでしょうね。
生駒ビルヂングは、その時代の大阪の輝きを今も私たちに見せてくれています。
屋上の時計塔とその下に続く出窓、そして二階の丸窓で巨大な振り子時計を表現しているそうです。

昼間はピンときませんでしたが、日が暮れてから眺めてみると・・・。

おわかり頂けましたでしょうか?
見事に大きな振り子時計を表現していますね。



鷹の彫刻と装飾板
 建築様式としては、アール・デコという装飾様式だそうです。このアール・デコという様式は、一時衰退していたアール・ヌーボー等の装飾的スタイルが、原始美術や画家のグスタフ・クリムト等が提唱する分離派の影響を受け工業デザインと結びついて復活し、1925年のパリ国際装飾美術展で集大成されたものだそうです。
アール・デコ様式の代表的建築物はニューヨーク摩天楼のクライスラー・ビルやキングコングが登ったエンパイア・ステート・ビルだとのこと。
生駒ビルヂングの竣工はクライスラー・ビルと同じ1930年なので、当時の世界的流行の最先端を行くビルだったわけですね。
 
出窓と丸窓

アール・ヌーボーはジャポネスク(日本趣味)の影響を受けた様式だといわれていますが、そのアール・ヌーボーが分離派(ゼツェッション)の影響を受け、そしてまたアール・デコ様式として日本の生駒ビルヂングに帰ってきたわけで、巡り合わせの面白さを感じます。

私は建築の専門家ではないので、聞きかじりの雑学をひけらかすのはこれで終わりにいたします。

北側1階ではカフェを営業されています。
レトロモダンな空間で過ごすひとときは、好きな人にはたまらないでしょうね。
貴重な歴史的建築物が、現代もこのように有効に利用され保存され続ける理想の形を、この生駒ビルヂングで見た気がいたします。

  • フランク・ロイド・ライト・・・アメリカの建築家。旧帝国ホテルの設計など、母国アメリカよりも日本に多くの建築を残した。機能主義の建築デザインに対して、人間の健康的な生活に適する有機的建築を唱え、カウフマン邸(落水荘)など優れた住宅を建築。
   カウフマン邸(落水荘)
https://www.youtube.com/watch?v=3mjOKoW390E

  • アール・デコ様式・・・1925年様式ともいう。幾何学形態が多く用いられた。
  • ゼツェッション(分離派)・・・19世紀末から20世紀初頭にウィーンで起こった芸術運動。アカデミズムからの分離を訴え、アール・ヌーボーの影響を受けながら、実用性のある新しい表現を目指した。提唱者はグスタフ・クリムトだが、理論的主柱となったのは、実用主義を唱えたオットー・ワグナー。

  • アール・ヌーボー・・・意味は「新しい芸術」。19世紀末のヨーロッパを象徴する芸術運動。ジャポネスク(日本趣味)の影響を受けたアール・ヌーボーの特徴は、植物がからみつくような曲線の多用にある。
  • グスタフ・クリムト・・・オーストリア帝国の画家。ウィーン分離派を結成し初代会長に就任。
   グスタフ・クリムトの作品


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