2013年4月10日水曜日

岸本瓦町邸

松屋町筋から西へ東横堀川にかかる大手橋を渡ると、目の前にクリーム色の風格ある邸宅があります。
その英国調の堂々とした建築物は、大手橋を渡る者の関心を必ずひくでしょう。
岸本瓦町邸
岸本瓦町邸。
昭和6年(1931)に鉄鋼商の岸本吉左衛門の本邸宅として建築されたそうです。
平成10年に登録有形文化財として登録されております。

この建物だけをじっと眺めていますと、どこか外国にいるような錯覚に陥ります。
ぜひ建物の中も拝見したいのですが、現在も事務所として使用されているそうで。
建築主の岸本吉左衛門が美術コレクターだったこともあり、中には貴重な美術品も保管されているとのこと。
なるほど、窓という窓にシャッターが装備されているわけです。

石貼りの外壁は「竜山石」が使用されています。


間近に見ますとこの外壁、指で削れそうなほど柔らかな風合いと淡い色合いがなんともいえません。
「竜山石」に関してはこちらのサイトに詳しく紹介されています。
石の文化を創り続ける「竜山石」
住友銀行本店ビルにも同じ竜山石が使用されているのですね。

もっとこの邸宅について知りたいのですが、私の探し方が悪いのか、なかなか詳しい資料にめぐり合いませんでした。
ですが、建築主である岸本吉左衛門についてはその自伝を読むことができました。
「鐵屋のぼんち」「続・鐵屋のぼんち」と題された自伝なのですが、本当に面白かったです。
明治・大正・昭和初期が大阪商人の目から描かれており、政治、経済、風俗、名士との交流、海外の様子、商売での苦闘、人生哲学、果てはお菓子の話からホテル談義まで。盛りだくさんの内容でした。
それだけにご紹介したい事がたくさんあるのですが、書ききれる量ではないのでほんのさわりだけご紹介致します。

明治末期・大正初期のイギリス中流家庭や大阪船場の商家の食事とは、どのようなものだったかご存知でしょうか?
「鐵屋のぼんち」に記されていた内容を少しご紹介致します。
岸本吉左衛門は洋行の際、イギリスの中流家庭に滞在されたようです。
そこで経験した家庭料理とは。
  • 朝食・・・必ずポリッヂがでる。英国ではオートミルとは言わない。ポリッヂという。英人でも砂糖とミルクをかける人が多いがスコットランドでは塩を用いる人の方が多いらしい。英国では朝の食事と午後のお茶の時に限りこのブレッドエンドバターと一語で言い切る特種品がある。薄く切ったパンに一面に薄くバターをぬり、これを朝食には大皿に盛り上げて各自が自分のパン皿に取り、ママレードをつけたり、又ヂャムをつけたり、又そのまま食い、次のベーコン・エッグの一皿と共にこれだけの朝食を食うのは欧州でも英国だけの特別慣習らしく、私も初めはポリッヂだけか卵だけで御免蒙ったが慣れてくると英国からパンとコーヒーだけの常朝食の国へ行くと物足りなく感じるのであった。英国では朝食は大体コーヒーではなく紅茶らしい。
  • 昼食・・・主婦など家庭の者は昨夜のデナーの残りとか、チーズとパン位の軽食、外勤者はこれ又軽食が多く、ABCという軽食屋がいたるところにあり、ノーチップの女給さん、食物はパン、スコーン、パター、チーズ、肉類は精々1~2種、ステーキアンドキドニーパイか、マトンシチウ位のもの。飲み物は牛乳、紅茶、コーヒー。又このABCのアップルパイは大型でこれひとつで昼食代りにする人も多い。
  • 夕食・・・大体7時か7時半、スープのある夜もあるが一品とデザート、一週六夜の過半はマトンで、あとは豚、トリ、サカナ。デザートは子供たちが満腹感を得る物が多い。アップルパイ、タピオカプデング。カスタードソースといのが牛乳、卵、メリケン粉で一寸生クリームの感じを出してある。子供たちはこれを大皿にとる時こぼれますよ、とよくお母さんに叱られる代物である。
よくイギリスの料理は不味いと聞きますが、こうやって文章を読むとよだれが出そうになります。
大英帝国の家庭料理ですので、これが当時の世界で一番贅沢な食事と言えるのではないでしょうか。
そして同時代の日本。
船場の商家の食事風景です。
  • 朝食・・・船場と限らず、大阪の商家の朝食といえばオコーコ、即ち沢庵と飯だけというのが普通であり、関東のように朝食は味噌汁というのは大阪にはあまりなかったらしい。主人側、奉公人、両方で二十何人という大家族の飯の分量は飯炊きの朝食を前夜の残り、即ち冷飯ですませるか、又朝早く炊かねばならぬか、奉公人数人の出入りによっても違うが朝食は冷飯でも皆だまっていた。
  • 昼食・・・昼はお惣菜一種。だしジャコか、油揚げ、が味の素で菜っ葉、大根、かぼちゃ、白瓜、おあげさんと称する油揚げと豆腐、高野豆腐、コンニャク、メイと称する関東のヒヂキに似たもの等、これらの繰り返しで家によっては16とか27とか大体食物を決めている家もあり、豆腐の味噌汁の日もあれば、コンニャクを細く切り汁に入れ、ショウガのしぼり汁をきかせたものなどは今も僕の郷愁をそそる。
  • 夜・・・夜は若干ご馳走で、英国のデナーにあたるといっても商家のお惣菜といえば魚といえばアジ、サバ程度。当時の大阪にはグチという五六寸の魚があったが現今は見かけない。16とか1日と15日とか赤飯を炊く家、番頭さんだけに一本お酒のつく家、私の家では倉方という肉体労働の専門家連中はこの恩点に浴していた。昼は主人側も奉公人と食事を共にする家が多いが、夕食は主人側は一族だけ奥の座敷で女中のお給仕で食事となる。
どう思われますか?
肉がまったく登場しません。
牛丼をいつでも食べられる現代日本は本当に幸せですね。

岸本吉左衛門という人物は、曽祖父の泉屋吉右衛門のころから続く鉄を扱う商家の跡取りでした。
それで自伝が「鐵屋のぼんち」なのですね。
日清日露戦争で鉄生産に目覚めた日本。その後の第一次世界大戦による鉄需要で鉄成金・船成金が出現したことはご存知だと思いますが、その鉄成金に名を連ねたのが岸本吉左衛門その人です。
当時の鉄の価格を参考にして下さい。

第一次世界大戦は1914年から1918年にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦ですが、特に終盤の2年間の銑鉄価格の高騰が凄まじいですね。

「銑鉄」というのは、鉄鉱石を石炭・石灰・マンガン鉱石などを使い還元したものをいいます。
この銑鉄を使って製鋼するのが製鋼業です。
岸本吉左衛門が経営していた岸本商店は、この銑鉄を主に英領インドから輸入する会社でした。
インドの鉄鉱石は鉄の含有量がとても高く、よって石炭などの他の原料も少量で済むのでとても安価でした。
しかし、日本は日露戦争後、大陸に進出し鉱山を開発などするわけですが、そこに資源に関する対立が生まれたのでした。
質・価格ともにインド銑鉄に勝てない大陸資源を扱う財閥系企業は、カルテルを結成してインド銑鉄に対抗します。
「銑鉄も日本の勢力圏内で調達すべきだ!欧米からの輸入に頼っていたら有事の際にどうする!」というわけです。
岸本吉左衛門は、インド銑鉄の輸入業者として槍玉にあげられました。
岸本吉左衛門曰く「一朝事あらば海外から銑鉄は輸入できないと仰せられるが、銑鉄の輸入が出来なくなればその4倍もの鉄鉱石と石炭の輸入は一層困難、否不可能となる。これは子供でもわかることである。」
なんとなく、現代のTPP交渉参加問題にも通じるものがありますね。
事実、その後の太平洋戦争で通商破壊を受けた日本は、極度の物資不足に陥りました。
カルテル側が、重い関税をかけるよう政治力を使ったり、ありとあらゆる手を使ってインド銑鉄を日本から駆逐しようとする中で、必死に対抗する岸本吉左衛門ですが、結局インド銑鉄は日本から追い出されてしまい、そしてご存知のように日本は英米との対決への道に進んでいくのです。

岸本吉左衛門が自伝の中で

「私は思う。満州投資を印度へ投入していたら、印度の製鉄へ日本の力を政府が本腰を入れていたら、大東亜戦争なるもの、大きく言えば亜細亜の地図、現在のものとは違うのぢゃないか。」

と語る一節があるのですが、政治家とはまた違った、国家の運命を左右する資源を扱ってきた商人の重い言葉だと感じました。

岸本瓦町邸から思わぬ面白い本にめぐり合えたのは実に幸運でした。
明治・大正・昭和という激動の時代を船場商人が語るという、普通の歴史書とはまた違った景色が見えた気がします。

大阪市中央区瓦町1丁目2番1号

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