2013年1月31日木曜日

安井道頓道卜紀功碑

このブログを書くようになり、大阪の街での日常において、様々なものが目に留まるようになりました。
それが、とても目立つ場所にあったり、大きなものであったりすると、なぜ気づかなかったんだろうと自分でも可笑しくなります。
日本橋北詰の北東にある「安井道頓道卜紀功碑」がまさにそれです。

安井道頓道卜紀功碑

学生時代には、宗右衛門町でアルバイトをしておりましたので、ほとんど毎日のようにこの石碑の前を通っていました。目の端には入っていたはずなのですが、何であるかを気にする事はありませんでした。
安井道頓と安井道卜は、ご存知の方も多いと思いますが、道頓堀川を開削し、今日の大阪の繁栄の基礎を築いた人物です。
テレビのコメンテーターとしても活躍されてます作家の若一光司さんの著書「大阪地名の由来を歩く」に道頓堀に関する一節がありますので引用させていただきます。
『道頓堀の歴史は、安井(成安)道頓が秀吉から下賜された土地の開発のために、堀の開削に着手したことにはじまる。』
調べてみると、道頓は大坂城築城に従事し、その恩賞として荒地だった現在の道頓堀一帯を与えられたようです。そして、私財を投じて慶長17年(1612年)開削工事に着手します。
しかし、2年後には大坂の陣が始まり、大坂方に味方した道頓が戦死してしまいます。
以降は、道卜ら親戚が中心になり工事を続け、元和元年(1615年)に道頓堀が完成したとされています。
さらに「大阪地名の由来を歩く」から引用させていただきます。
『道卜はさらに、道頓堀川の両岸に次々と市街地を建設。南船場にあった芝居小屋と遊所を道頓堀に移転させることを願い出て、寛永三年(一六二六)に許可された。』
寛永の頃にはもう、歓楽街道頓堀が誕生していたのですね。
当初は道頓堀川ではなく南堀川と呼ばれていたそうですが、初代大坂城主の松平忠明が道頓の功績を称え、道頓堀と命名したのだそうです。
若一光司さんの著書では「安井(成安)」と書かれていますが、どうも現在では道頓は成安姓であったことが定説化しているようです。
道頓堀の歴史はなんとなくわかりましたが、気になるのはこの石碑。
碑文の横には奇妙な長方形の窪みが並び、なにより石そのものがなんともいえぬ風格を漂わせています。
題字横の長方形の窪み
その後ろ側には漢文で書かれた由来らしきものがあるのですが、残念ながら解読できませんし、文字数が多くて解読する気力もありません。
紀功文
しかし、どうしても気になるものですから、資料を漁ってみました。 すると、市立中央図書館の書庫に眠っていたこんな資料と出会いました。



道頓道卜翁略譜表紙のコピー
バインダーの中に封筒があり、さらに紙に包まれて出てきたB6サイズほどの小冊子なのですが、紙の色が変色し、見るからに年季を感じさせる資料でした。 厳重に保管されていたようなので、素手で触っていいものなのかと迷いながらも恐る恐る開いてみると、昭和11年5月5日発行と記されています。戦前の資料ですね。
編集兼発行印刷人が安田覚三郎、発行所が道頓祭協賛会となっていました。
そこには、安井道頓道卜略譜やこの紀功碑が建立された経緯、そして道頓堀祭協賛会設置の話が書かれていました。
なかなか興味深いものだったので、少し紹介させていただきます。

まず、安井氏家祖と書かれた項を読んでみますと、安井氏の祖先は清和源氏多田満仲の末裔である畠山満貞だと主張しています。功績により足利将軍家から渋川姓を頂いた満貞の子光重は播州安井郷を知行に持ったので苗字姓を安井に改め、五葉の唐花を家の紋所と定めた。それが安井家の開祖となり、代々河内の豪族として畏敬され、七代目にあたる安井定次の長子が安井道頓翁だと記されていました。

続く安井道頓翁の項では、「道頓諱(いみな)成安(しげやす)、市左衛門と称し晩年薙髪して道頓と号した」と書かれていました。
他の文献では、成安(なりやす)姓が定説と書かれていましたが、こちらの資料では成安(しげやす)であり、しかもそれは諱であったと食い違いをみせていますね。
続いて、豊臣秀吉に気に入られ、道頓堀開削を始める経緯、そして戦死するまでが記されていたのですが、最後は「思出ふかき錦城を枕に玉と砕け花と散り」となっていたので、大坂城で戦死したのではないと思われます。

そして、安井九兵衛道卜の項と続きます。
道頓の遺業を引き継ぎ苦労して大工事を竣成させ、歓楽境を出現させたと記されていました。
そこには「グレート大阪の實現に著目されました道頓翁」なる一文があり、大阪維新の会が掲げる「グレーター大阪」とオーバーラップするようで、そういった大阪像はこの冊子が発行された戦前にも大阪人の心に根ざしていたものなんだなと、面白く感じました。


道頓堀川(日本橋上より撮影)
さらに、道頓堀川と命名された経緯も書かれておりました。大阪城代として赴任した松平忠明が大坂の繁栄に驚き喜び、道卜を招いて褒美を出したのですが、道卜は「養父道頓と工事に携わった多くの人々の功績であり、私が褒美を受けるわけにはいきません。」と固辞。さらに松平忠明を感嘆させたと記されていました。カッコイイですね。 当初、高津南堀川と呼ばれていたこの川を松平忠明は、道頓父子の功績を後世に伝えるため「道頓堀川」と命名。今日に至ると締めくくられていました。

そして、肝心の紀功碑建立の経緯は、両道紀功碑と題し、詳細に書かれていました。
大正3年11月に、大正天皇が大演習の統監のため大阪に行幸啓された際に、道頓道卜の功を御追褒あそばされ従五位を下賜されたとのこと。翌年には道頓翁三百年忌大法要が法案寺で行われ、大迫師団長や府市名誉職百名の参列を見て非常に盛儀であったとのこと。
その法要に引き続き、沿岸有志の協議と大久保利武(大久保利通の三男)長官の発案により紀功碑を建立することになったと記されていました。
長官と記されていますが、大久保利武は大正元年から大正6年まで大阪府知事を務めていますので、当時の大阪府知事がこの紀功碑建立の発案者というわけですね。
この資料によりますと「碑の高さは壹丈五尺。幅五尺余。重量七千貫」となっておりますので、換算しますと、高さ約4m50cm、幅約1m50cm、重量約26tでしょうか。
題字は大久保利武の考案で、裏側の紀功文は撰文が西村時彦、書丹が磯野惟秋となっています。
碑材はなんと、大坂城築城の際に四国から安治川まで運搬したものを誤って水中に落としてしまい、300年後に発見された石だそうです。府の収得となったものを大久保利武から紀功碑のために提供されたとのこと。このような、何らかの理由で大坂城の石垣に使われなかった石を「残念石」と呼ぶそうですが、実際に傍で見てみると、残念ではなく大変立派なものです。題字の横に掘られた長方形の窪みは、掘り出された際の掘削の跡だったわけですね。

最後に、道頓祭協賛会設置と題した項。昭和8年に沿岸有志が法案寺に集まり、毎年5月8日の道頓翁陣没の日を祭日に定め、前後1週間例祭を執行しようと協賛会を組織したと記されていました。5月1日から10日まで、沿岸各戸一斉に安井家の定紋を描き出した軒釣提灯を掲げ、謝恩大売り出しを行っていたそうです。
なかなか楽しそうなイベントですね!今はこうしたイベントがあるとは聞かないので、いつしか無くなってしまったのでしょうか?ぜひ続けて欲しかったです。
いやはや、紀功碑にまつわる道頓堀川の歴史だけでも深いものですね。
道頓堀川といえば、私は宮本輝の川三部作のひとつ「道頓堀川」を思い浮かべるのですが、道頓堀にまつわる文学や芸能にまで話を広げると半生を費やす事になりそうなので、今回はこのくらいで締めくくりとさせていただきます。


安井道頓道卜紀功碑付近略図

安井道頓・道卜の石碑修復 「次の100年に向け残せた」 大阪 

2014.7.13 msn産経ニュース

江戸時代に道頓堀川を開削した安井道頓と安井道卜(どうぼく)の功績を記した石碑が修復され、記念の除幕式が12日、大阪市中央区島之内で行われた。

修復後
修復後(裏側)
以前は、剥がれ落ちそうになっていた上部を針金で留めていたのですが、その部分を大胆に削り取ったようですね。
取り壊されるところを、地元の商店会や町会の方々が多額の費用を出して下さり修復できたとのこと。
この功績はきっと100年後も語り継がれることでしょう。

2013年1月21日月曜日

後期難波宮で回廊出土

先週木曜日。朝食をとりながら新聞を流し読みしていると、小さな記事が。
「後期難波宮で回廊出土」
難波宮跡公園は、大阪市中央区法円坂にある広々とした公園で、大阪城の南西に位置します。
毎年10月に開催される中央区民まつりの会場であり、私の所属しております大阪府行政書士会中央支部では毎年昔懐かし「型抜き遊び」のブースで参加させていただいております。
緑が多く、いつも綺麗に管理されている公園なので、ウォーキングに出かけるときはこの公園をよく利用しています。


冬の難波宮跡公園
 日曜日に現地説明会があるということで、さっそく出かけてまいりました。
今回の発掘調査地は、公園の北東の工事現場で、後期難波宮の大極殿から東に100m位置する場所です。
この場所には公営集合住宅が数棟建っていたのですが、一昨年の秋頃、ちょうど大阪ダブル選挙の直前あたりから、一気に解体工事が進みまして、今ではすっかり更地になっております。
あの集合住宅はレトロな佇まいがなんともいえず、それはそれで私のお気に入りの風景だったのですが・・・。
今回の発掘作業は、その公営団地の建替え工事にともない行われたそうです。
調査の結果、土壇と瓦の堆積、そして礎石とみられる花崗岩が発見されました。

周辺では、60年ほど前の公営住宅建設時の調査で東西に長く伸びる土壇と瓦の堆積が発見されており、何かあるなという事はわかっていたようです。
今回発見された土壇は、赤褐色の地山の土を積み上げたもので、東西方向に伸びています。
土壇の南北端部は傾斜面となっておりまして、その外側に瓦の破片が密集して出土しました。
これは、土壇の上に建築された建築物が解体される際に残されたものだとみられ、前期難波宮には瓦が使用されていなかった事から、後期難波宮のものだとわかるそうです。
建物を瓦葺にすると重量が重くなるので、柱だけでは地面に沈み込んでしまいます。それを防ぐために、礎石が必要になってくるわけですが、この礎石とみられる花崗岩の発見も建築物が瓦葺だった事を物語っています。
土壇の幅は下幅8.9m上幅7.2mで、60年前の調査を参考にすると、東へ約40mにわたり連続しているようです。


←が北です
 このような長い建築物としては、回廊などが考えられるそうですが、同時代の建築物の回廊(奈良の東大寺等)と比べると幅が狭いことから、二列の複廊ではないかと推測されるそうです。
南側には複廊、そして過去の調査から東西北側には庇を伴う築地などがあったと判明しており、これらを総合すると、南北約120~130m、東西約85mの大きな区画施設が復元できるのです。
大極殿の東方に位置するこのようなに大規模な区画施設とはなんでしょう?
平城京や平安京を見てみると、当時の最高国家機関であった「太政官」の施設があるのですが、この発掘現場で発見された複廊や庇を伴う築地は、その太政官の施設よりもさらに格式が上なのだそうです。
という事は、皇族の居所である可能性がかなり高いのです。
考えられるのは、744年(天平16年)の2月から11月というほんの短い期間だけ、難波宮が都となった事があり、その時の天皇の居所であった可能性。
そして、756年(天平勝宝8年)に孝謙天皇が「難波宮に至り、東南新宮に御した」と続日本紀に記された「東南新宮」であった可能性が考えられるのです。
現在の難波宮跡公園だけでもかなりの広さがあるのですが、さらにその周辺にもこのような施設があったとは、後期難波宮とはどれほどの広さがあったのでしょうか。
そんな広大な難波宮跡も、第二次世界大戦が終わるまではどこにあったのかは謎だったそうです。
1953年(昭和28年)に付近で鴟尾が発見され、それがきっかけとなり考古学者の山根徳太郎の発掘により大極殿が発見されたのです。
現地で展示されていた出土遺物
熱心に見学される多くの考古学ファンにつられ、長い時間「天平の甍」の世界に浸っていたので、気がつくと手足がかなり冷えておりました。
難波宮が発見されてから今日まで、発掘に携わってこられた方々の努力に敬意を表しつつ説明会場を離れ、最後にもう一度、冬の難波宮跡公園をパチリ。


  • 後期難波宮(こうきなにわのみや)・・・神亀3(726)年から聖武天皇によって造営が始められた宮殿。前期難波宮と同じ中心軸の上に建てられている。大極殿や朝堂院などの中心部の建物は瓦葺き、礎石建ちが採用されている。長岡遷都(784年)に伴って廃された。前期難波宮は乙巳(いっし)の変後、白雉(はくち)元(650)年から造営が始められた孝徳天皇の難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)と考えられ、瓦を使用していないことがわかっている。
  • 大極殿(だいごくでん)・・・大極殿は、即位など国家の重要儀式に際して天皇が御した建物で、後期難波宮の大極殿は基壇を有する礎石建物である。大極殿の位置する区画を大極殿院といい、東西106.2m、南北80.5mの規模である。
  • 東南新宮(とうなんしんきゅう)・・・『続日本紀』天平勝宝8(756)年2月28日(壬子)の孝謙天皇の行幸の記事として、この日、「大雨。賜河内國諸社祝祢宜等一百十八人正税。各有差。是日行至難波宮。御東南新宮。(大雨。河内国の諸社の祝・禰宜ら118人に、地位に応じて正税を賜る。この日天皇は難波宮に至り東南新宮にはいられた。)」がある。
  • 複廊(ふくろう)・・・屋根付きの回廊の一種で、梁行2間になるもの。同1間は単廊(たんろう)という。
  • 築地(ついじ)・・・土を突き固め、乾燥させて造る壁状の区画施設。多くは瓦を葺く。両側に庇(ひさし)を葺きおろせば築地回廊、片側のみは築地片庇廊(ついじかたびさしろう)となり、回廊である。
(平成25年1月20日難波宮跡(NW12-6次)発掘調査現地説明会資料より抜粋)


こちらのブログには発掘現場がとても綺麗に撮影されております。

Google