2013年5月2日木曜日

大阪市立愛珠幼稚園


大阪市立愛珠幼稚園
先月20日に大阪市立愛珠幼稚園の一般公開があるとのことで行って参りました。
といいましても、子供の入園のためというわけではなく、重要文化財としての愛珠幼稚園の見学でした。
こちらの幼稚園は創立がなんと明治13年(1880年)という歴史ある幼稚園なのです。
現存するこの愛珠幼稚園舎は三代目であり、竣工が明治34年(1901年)です。
しかも、当時の状態とほとんど変わらずに健在であるという貴重なものなのです。
オフィス街の高層ビルに囲まれた風格ある木造和風建築なので、以前からぜひ中を見てみたいと思っていました。
この建物は現在も現役の幼稚園として使用されていますので、こういうご時世ですし、カメラを持って中をうかがうなどできません。
一般公開していただけるのは本当にありがたいです。
しかし、幼稚園長とPTA会長の名前で園内撮影禁止との説明があり、残念ながら中の様子はブログではお見せすることができません。
園児の安全を考慮してという趣旨から考えますと、文字表現であっても内部の間取りを公表するのはまずいかなと色々考えました。
ですので、かなりわかりにくい文章になるかも知れませんが、できる限りこの歴史的建造物の素晴らしさをお伝えしたいと思います。
初代愛珠幼稚園は現在の場所より御堂筋を越えさらに西の今橋5丁目5番地にあったそうです。
豊田文三郎という議員が
「小学校はほとんど全国に普及したが幼児の教育上欠くことのできぬ幼稚園は一、二に過ぎない。当連合町は全国に率先して町立幼稚園を設立し幼児保育の効果を社会一般に知らそう」
と建議したのがきっかけで誕生したのが初代愛珠幼稚園です。
日本全国で幼稚園が1、2しか存在しない時代に、この発想は凄いですね。
初代愛珠幼稚園は戸長役場と民家を修理改造した園舎だったそうで、敷地は376.5㎡ほどだったようです。
東京お茶の水付属幼稚園保母練習科の卒業生を招聘し、かなり好評だったのか創立わずか4年で園児が120名を数え、園舎狭隘のため今橋3丁目(トレードピア淀屋橋の南西)の鴻池善右衛門持家を修理して移転しました。
二代目園舎は敷地が813㎡とかなり広くなりました。
しかし、園舎の構造に問題があり、光線が不足し暗く、冬は寒く、「音響に異常を生ずる等の不便」もあったそうで、運動場はむしろ初代園舎の方が広いといった状況だったそうです。
二代にわたる園舎の不備を正し建築されたのが現在の三代目園舎なのです。
この三代目園舎の原案は、当時の保母が墨画でスケッチしたそうです。
私はここに愛珠幼稚園が明治から現在に至るまで、当時の姿のまま残った理由があるように思います。
現場のプロが原案を作ったわけですから、時代が変わっても園児にとって最適な構造になったのでしょうね。
明治時代といえば、なんとなく堅苦しいイメージがありますが、もしかすると現代以上に柔軟性のある行政がなされていたのではないでしょうか。

井桁と吹寄せの襷格子の門扉
一般公開には多くの見学者が参加されていました。
勝手な印象ですが、どうも重要文化財の見学というよりも、入園を目的とした父兄の見学といった雰囲気の参加者が多かったです。
建物内に入るのに20分くらいは並んだと思います。
おかげで門からじっくり見学できました。
この風格ある門扉は、武家の門に多く用いられた形式だそうです。
向かって右側の通用門は、自動的にしまるように工夫されていたそうで、その時用いられた門開分銅も現存しているそうです。
素晴らしい工夫ですね。
門を入ると整石の敷石が三方に伸び、正面は大寺院を思わせるような堂々とした本玄関に通じています。
その左手の植込みには清水多嘉永志作「植樹の像」があります。

「植樹の像」清水多嘉志作
そして、残念ながら撮影は玄関まで。
玄関から廊下を挟んでメインの遊戯室が見えるのですが、撮影するとまずいかなと思い、玄関の天井まで撮影してデジカメの電源を落としました。
玄関の格天井
外部から見た場合、一番大きな入母屋屋根が遊戯室です。
この遊戯室を写真でお見せできないのが非常に残念です。
言葉ではなかなか素晴らしさを表現できません。
広さは63坪ほどだそうですが、とにかく明るい。
昼間なら照明が不要なのではないでしょうか。
遊戯室の部分は身舎なのですが、西洋の教会のような高窓(クリア・ストーリーというそうです)が三方にあり、ここからの採光が明るさの理由だと思います。
南西北の三面に鉄製の二階式回廊が回っており、支える鉄柱はむき出しのH型鋼です。
メジャーを持っていたので測ってみますと、フランジ幅240mmウェブ高230mmフランジ厚30mmでした。
なにやら刻印されているので必死になって目を凝らして見ると「SEITETSUSHO YAWATA」と陽刻されているではありませんか。
あの官営八幡製鐵所で製造されたH型鋼なのです。
高さのある天井は、玄関と同じく格天井となっていて、和風のアクセントとなっていました。
東側壁面には明治34年から変わらず時を刻み続ける大時計が懸かっています。
本当に、よく戦災に遭わず残ってくれたと感謝したいです。

遊戯室を出て廊下を渡ると摂生室という部屋があり、そこが唯一畳敷きの部屋でした。
摂生室という名前から推察して医務室みたいなものでしょうか?
床の間もあり、医務室のイメージとはかけ離れたものでしたが、ここには「成人在始」と書かれた書が飾られていました。
張賽という清国の人物(後の清国農商部総長)が、愛珠幼稚園に来園し贈った書だそうです。
海外の要人が視察に訪れる先進的な施設だったということですね。

その他にも面白かったのが、トイレが独立した造りになっていたことです。
独立しているので明るく通気が良い。
外側から見るとちょうどこの部分だと思います。

本当に子供のために考え抜かれた設計になっていますね。

運動場は、コの字に回る園舎の廊下に囲まれ、ちょうど中庭のような感じです。
ここにも工夫がされており、運動場とそれを囲む廊下の高さが同じなのです。
バリアフリーですね。
高さが同じという事は、運動場は盛り土ということです。
排水などを考えると、建物の基礎にも相当な工夫がなされていると想像できますね。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」の一節に
「明治維新によって日本人は初めて近代的な「国家」というものをもった。誰もが「国民」になった。 不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。 この痛々しいばかりの昂揚が分からなければ、この段階の歴史は分からない。」
とありますが、その昂揚がこの愛珠幼稚園から強烈に感じられた気がしました。

一般公開は年に二度ほどあるそうです。
一般公開時でなくても、この簓子下見板張の高塀の周囲を歩くだけで雰囲気は楽しめると思います。

明治の船場の心意気がしのばれる名建築だと思います。

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