2013年10月25日金曜日

大利鼎吉遭難之地

谷町7丁目の交差点より谷町筋を北に100mほど歩くと、谷町筋と松屋町筋を東西に走る坂道があります。
丁度、空堀商店街と平行に走るこの坂道は、交通量が少なく、自転車で走るにはとても快適でよく利用しています。
坂道を下りきり松屋町筋を渡ると、横断歩道の脇に碑が建っています。

「贈正五位大利鼎吉遭難之地」


この「贈正五位」というのは、贈位、追贈、追賜という没後に位階を贈る制度によるものだそうです。
明治以降は、尊皇攘夷や明治維新で功績を挙げながら亡くなった人物等に贈られたようです。
碑の北側側面にはこう刻まれています。

大利鼎吉(おおり ていきち)は土佐藩の尊皇の志士であり、この地に潜伏中の慶応元年1月8日、新撰組の兇刃に斃れる。享年24歳。
この大利鼎吉なる人物、土佐藩という事は、坂本龍馬に詳しい方ならご存知なのでしょうか。
新撰組といえば京都というイメージがあるのですが、まさかこの大阪で新撰組の名を見るとは意外な感じがします。
ここで起きた事件を土佐勤皇党 ・坂本龍馬ルートで調べるか、新撰組ルートで調べるか迷いましたが、NHK大河ドラマ「新撰組!」を欠かさず観ていた事もあり、新撰組ルートから調べてみました。

この碑にある殺害事件の名は「善哉(ぜんざい)屋事件」と呼ばれています。
大利鼎吉を斬ったのは、谷三十郎・谷万太郎の谷兄弟他2名。
この谷三十郎・万太郎の弟が近藤勇の養子になる谷周平です。
池田屋事件にも参加したこの兄弟は、新撰組の隊士でありながら大坂の南堀江に道場を開く事を許可されていたという特別扱いを受けていました。
新撰組の大阪支店のような役割だったのかも知れませんね。
岡山県倉敷で「下津井屋事件」を起こし、大阪に逃れてきた和栗吉次郎という人物が、この谷兄弟の道場に転がりこんできたのが元治元年(1864)。
その和栗吉次郎がどのようにして知ったのか、大阪に潜伏する倒幕派の情報を入手し、谷兄弟に知らせた事が事件の発端です。
その倒幕派は土佐脱藩浪士達で、長州征伐のために出陣した幕府軍を混乱させるため、大坂城を焼き討ちし大坂を混乱させた後、上京して佐幕派の大名を討ち取る計画をしていました。
武者小路家家臣の本多大内蔵が、石蔵屋政右衛門と名乗り松屋町筋瓦屋町で経営していた善哉屋「石蔵屋」にその土佐脱藩浪士達は潜伏していました。
事件前、その善哉屋に潜伏していたのが田中光顕、大橋慎三、那須盛馬、そして大利鼎吉だったのです。
慶応元年(1865)1月8日、谷三十郎・万太郎兄弟は正木直太郎と高野十郎の2人の門弟を連れて瓦屋町の善哉屋に向かい、そして事件が起きたのでした。
この日この時、運悪く善哉屋にいたのは大利鼎吉そして本多大内蔵とその家族とされていますが、記録の中には太刀を振るう僧侶もいたとするものもあるそうです。
闘いは相当激しかったようで、新撰組側の記録には、正木直太郎が右腕を四寸ほど斬られ、谷三十郎も足を負傷、谷万太郎は胸元に当身を喰らったとの報告書が残っています。
中には大利鼎吉1人を討ち取るのに4人がかりで1時間も要したという話もあるそうです。
谷兄弟は池田屋事件にも参加し、道場を開くほどの腕前。
それに手傷を負わせてこずらせたというのは、先の太刀を振るう僧侶が現場にいたとしても、大利鼎吉は相当な剣の腕前だったと推測できます。
谷万太郎が近藤勇に送った報告書には「何気なく四人にて入り込み候ところ」と書かれています。
要するにこの善哉屋での斬り合いは、計画的なものではなく偶発的に起きた事件だったようです。

碑の「遭難之地」と記された横に、小さく人物名が刻まれています。


「正二位勲一等田中光顕」
この碑を建てたのか、大利鼎吉への贈位に尽力したのか。
この人物は、善哉屋事件の当日、運良く外出していて難を逃れた田中光顕その人です。
少し調べてみますと、田中光顕は明治新政府で宮廷政治家として大きな勢力を持ち、伯爵という華族にまで列せられ、宮内大臣にまで登りつめたのです。
そして昭和14年に97歳で没するまで明治維新から昭和という激動の時代を生き抜いたのです。
なんという運命なのでしょう・・・。
大利鼎吉は、その日、善哉屋に居たばかりに24歳の若さで「何気なく四人にて入り込み候ところ」の新撰組と激闘の末斬殺され、その日、たまたま善哉屋に居なかった田中光顕は大臣にまで出世し、明治・大正・昭和と生き抜いた。
この碑には、そんな運命のいたずらともいえる2人の記録が刻まれていたのですね。

松屋町筋に立ち碑を見ると、大利鼎吉が死の前日に詠んだとされる歌が刻まれています。

「ちりよりも かろき身なれど 大君に こころばかりは けふ報ゆるなり」

後日、こちらの碑をもう一度よく見てみますと、建立された年月日がちゃんと刻まれていました。

植込みで隠れていたので見落としていました。
昭和十二年二月三日建之
さらに、「奥野伊三郎」「前田重兵衛」と人名が刻まれています。


もうひとつ見落としていました。
こちらの碑の前に「BOW」というヘアサロンがあるのですが、その外壁に碑に関する案内板が設置されていました。
大利鼎吉が土佐勤皇党に入り、靖国神社に祀られるまで詳しく記されています。
こちらを読めばすべて解決でしたね・・・。

碑に刻まれた「奥野伊三郎」氏、「前田重兵衛」氏の名前をインターネットで検索してみますと、「大利鼎吉小伝」の寄与者と出版者としてヒットしました。
さっそくいつものように図書館に漁りに行きますと、書庫にありました。

昭和十二年六月一日に発行されたこちらの伝記は、編纂者が奥野伊三郎氏、発行者が前田重兵衛氏と記されています。
そちらに電話番号もあるのですが、番号の前に「南」や「土佐堀」と記されており交換手が取り次いでいた時代だったのでしょうか。しかも、市内局番が2ケタになっています。
時代を感じますね。

この伝記の中に「建碑に就いて」との一節がありました。
編纂者の奥野伊三郎氏は善哉屋事件の現場近くの生まれだそうです。
少年の頃、よく父から事件のことを「この血なまぐさい大騒動に近隣の人々は慄ひ上つて戸を閉め、誰れ一人表へでるものがなかつたという」と聞かされたのだとか。
これは実際にその現場を知る人でないと語れない臨場感ある話ですね。
松屋町筋の道路拡張工事までは、この事件のあった家屋が当時の姿のまま残っていたそうです。
拡張工事のためにあたりの様相が一変したのを機に、史跡を残そうと親友の前田重兵衛氏と相談し記念碑建設の計画を立てたというのが経緯なのだそうです。
そして、田中光顕伯爵に書翰を呈したところ、碑面の揮毫をして下さったと記されていました。

ちなみに、奥野伊三郎氏の親友にしてこの伝記の発行者である前田重兵衛氏は、この碑と同じ瓦屋町内にある菓子製造会社株式会社前田商店の代表取締役でいらっしゃいます。
といいましても、現在は四代目の前田重兵衛氏でして、伝記の発行人は先代の社長ではないでしょうか?
こちらの株式会社前田商店の創業はなと慶応元年!
老舗中の老舗であると同時に、善哉屋事件の起きた年と創業年が同じなのですね。
大利鼎吉小伝の中にも「老母お静と妻女おれんは北横町の前田なる家に潜んで一命を全うし、明治時代になつて両女は挨拶に来たが、その後は沓として消息を絶つた。」と善哉屋の家族のその後が書かれていましたが、ここに記された「前田なる家」とはもしかして初代前田重兵衛氏の家だったのでしょうか・・・?

地域の有志が建てて下さったこの碑。

壮絶な事件の現場とは思えないほど様変わりした現在の松屋町筋から、懸命に生きた維新の志士が忘れ去られないよう、私達に語りかけてくれているのですね。
そんな気がしました。



Google