2013年1月21日月曜日

後期難波宮で回廊出土

先週木曜日。朝食をとりながら新聞を流し読みしていると、小さな記事が。
「後期難波宮で回廊出土」
難波宮跡公園は、大阪市中央区法円坂にある広々とした公園で、大阪城の南西に位置します。
毎年10月に開催される中央区民まつりの会場であり、私の所属しております大阪府行政書士会中央支部では毎年昔懐かし「型抜き遊び」のブースで参加させていただいております。
緑が多く、いつも綺麗に管理されている公園なので、ウォーキングに出かけるときはこの公園をよく利用しています。


冬の難波宮跡公園
 日曜日に現地説明会があるということで、さっそく出かけてまいりました。
今回の発掘調査地は、公園の北東の工事現場で、後期難波宮の大極殿から東に100m位置する場所です。
この場所には公営集合住宅が数棟建っていたのですが、一昨年の秋頃、ちょうど大阪ダブル選挙の直前あたりから、一気に解体工事が進みまして、今ではすっかり更地になっております。
あの集合住宅はレトロな佇まいがなんともいえず、それはそれで私のお気に入りの風景だったのですが・・・。
今回の発掘作業は、その公営団地の建替え工事にともない行われたそうです。
調査の結果、土壇と瓦の堆積、そして礎石とみられる花崗岩が発見されました。

周辺では、60年ほど前の公営住宅建設時の調査で東西に長く伸びる土壇と瓦の堆積が発見されており、何かあるなという事はわかっていたようです。
今回発見された土壇は、赤褐色の地山の土を積み上げたもので、東西方向に伸びています。
土壇の南北端部は傾斜面となっておりまして、その外側に瓦の破片が密集して出土しました。
これは、土壇の上に建築された建築物が解体される際に残されたものだとみられ、前期難波宮には瓦が使用されていなかった事から、後期難波宮のものだとわかるそうです。
建物を瓦葺にすると重量が重くなるので、柱だけでは地面に沈み込んでしまいます。それを防ぐために、礎石が必要になってくるわけですが、この礎石とみられる花崗岩の発見も建築物が瓦葺だった事を物語っています。
土壇の幅は下幅8.9m上幅7.2mで、60年前の調査を参考にすると、東へ約40mにわたり連続しているようです。


←が北です
 このような長い建築物としては、回廊などが考えられるそうですが、同時代の建築物の回廊(奈良の東大寺等)と比べると幅が狭いことから、二列の複廊ではないかと推測されるそうです。
南側には複廊、そして過去の調査から東西北側には庇を伴う築地などがあったと判明しており、これらを総合すると、南北約120~130m、東西約85mの大きな区画施設が復元できるのです。
大極殿の東方に位置するこのようなに大規模な区画施設とはなんでしょう?
平城京や平安京を見てみると、当時の最高国家機関であった「太政官」の施設があるのですが、この発掘現場で発見された複廊や庇を伴う築地は、その太政官の施設よりもさらに格式が上なのだそうです。
という事は、皇族の居所である可能性がかなり高いのです。
考えられるのは、744年(天平16年)の2月から11月というほんの短い期間だけ、難波宮が都となった事があり、その時の天皇の居所であった可能性。
そして、756年(天平勝宝8年)に孝謙天皇が「難波宮に至り、東南新宮に御した」と続日本紀に記された「東南新宮」であった可能性が考えられるのです。
現在の難波宮跡公園だけでもかなりの広さがあるのですが、さらにその周辺にもこのような施設があったとは、後期難波宮とはどれほどの広さがあったのでしょうか。
そんな広大な難波宮跡も、第二次世界大戦が終わるまではどこにあったのかは謎だったそうです。
1953年(昭和28年)に付近で鴟尾が発見され、それがきっかけとなり考古学者の山根徳太郎の発掘により大極殿が発見されたのです。
現地で展示されていた出土遺物
熱心に見学される多くの考古学ファンにつられ、長い時間「天平の甍」の世界に浸っていたので、気がつくと手足がかなり冷えておりました。
難波宮が発見されてから今日まで、発掘に携わってこられた方々の努力に敬意を表しつつ説明会場を離れ、最後にもう一度、冬の難波宮跡公園をパチリ。


  • 後期難波宮(こうきなにわのみや)・・・神亀3(726)年から聖武天皇によって造営が始められた宮殿。前期難波宮と同じ中心軸の上に建てられている。大極殿や朝堂院などの中心部の建物は瓦葺き、礎石建ちが採用されている。長岡遷都(784年)に伴って廃された。前期難波宮は乙巳(いっし)の変後、白雉(はくち)元(650)年から造営が始められた孝徳天皇の難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)と考えられ、瓦を使用していないことがわかっている。
  • 大極殿(だいごくでん)・・・大極殿は、即位など国家の重要儀式に際して天皇が御した建物で、後期難波宮の大極殿は基壇を有する礎石建物である。大極殿の位置する区画を大極殿院といい、東西106.2m、南北80.5mの規模である。
  • 東南新宮(とうなんしんきゅう)・・・『続日本紀』天平勝宝8(756)年2月28日(壬子)の孝謙天皇の行幸の記事として、この日、「大雨。賜河内國諸社祝祢宜等一百十八人正税。各有差。是日行至難波宮。御東南新宮。(大雨。河内国の諸社の祝・禰宜ら118人に、地位に応じて正税を賜る。この日天皇は難波宮に至り東南新宮にはいられた。)」がある。
  • 複廊(ふくろう)・・・屋根付きの回廊の一種で、梁行2間になるもの。同1間は単廊(たんろう)という。
  • 築地(ついじ)・・・土を突き固め、乾燥させて造る壁状の区画施設。多くは瓦を葺く。両側に庇(ひさし)を葺きおろせば築地回廊、片側のみは築地片庇廊(ついじかたびさしろう)となり、回廊である。
(平成25年1月20日難波宮跡(NW12-6次)発掘調査現地説明会資料より抜粋)


こちらのブログには発掘現場がとても綺麗に撮影されております。


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