2013年11月5日火曜日

東平の神木「末広大明神」

私、御神木を解体する現場を初めて見ました・・・。
中央区の東平と上汐の間を走る道があります。
熊野街道の一本東隣の道です。
そこには道路の真ん中に枯れ木が鎮座しておりました。

鎮座しておりましたと過去形なのは、本日、その木が根こそぎ掘り返され潰されていたからです。
朝、出勤時に近くを通った際、作業員の方々が御神木の周囲で作業をされていたので、剪定の準備かな~とあまり気にも留めませんでした。
ちょっと元気の良い根元の木の枝が道路にはみ出していたので、車の通行に支障があるかなと以前から感じていた事もあり、その枝だけを切るものだと勝手に解釈していました。
ところが、夕方その道を通ったところ、御神木も碑も跡形無く消えておりました・・・。

その木の根元には「末広大明神」と刻まれた碑が建っておりました。
神として祭られた御神木だったのです。

大阪大空襲で焼けたイチョウの枯れ木だったとのこと。
戦災のモニュメントでもあったわけです。

このような道に残る神々の木は大阪市内にところどころあるそうです。
こちらの「末広大明神」からほんの目と鼻の先、直線距離で150mくらいの道路上にも御神木があ
ります。

谷町7丁目の交差点を東に入ってすぐ。
本当に道のど真ん中です。

こちらの御神木は「楠木大明神」と呼ばれ、地元では「谷町のクスノキさん」とも呼ばれているそうです。
この地には元々本照寺というお寺があり、この御神木はその境内に立っていたとのこと。
昭和12年に本照寺は移転してしまったのですが、この木だけは大阪で信仰されている巳さん(「みいさん」:蛇)が棲むとされ、切り倒すことによる祟りを恐れて道路の真ん中に残る事になったそうです。

こちらの御神木も残念ながら枯れてしまい、正確にはその切り株が「楠木大明神」なのです。
この道は「楠木筋」とも呼ばれており、その道に面して建つマンションの名前にも楠木が使われています。

いつもそこにあるものが無くなると形容しがたい物悲しさのような感情が沸くものですね。
「末広大明神」がそこにあるうちに、その歴史を調べておけば良かったと後悔しています。
ここ4~5年でしょうか、この東平と上汐の境は、民家や会社ビルなどがパタパタと取り壊され、投資マンションが一気に増えた気がします。
勝手な想像ですが、「末広大明神」を守り続けていた方がこの地を離れてしまい、守をする人手が無くなったのかも知れませんね。
信仰が無くなれば、神も存在しえなくなるのでしょうか。
古き良きものと新しい芽吹きが同時に存在する事は、なかなか難しいようです。

2013年10月25日金曜日

大利鼎吉遭難之地

谷町7丁目の交差点より谷町筋を北に100mほど歩くと、谷町筋と松屋町筋を東西に走る坂道があります。
丁度、空堀商店街と平行に走るこの坂道は、交通量が少なく、自転車で走るにはとても快適でよく利用しています。
坂道を下りきり松屋町筋を渡ると、横断歩道の脇に碑が建っています。

「贈正五位大利鼎吉遭難之地」


この「贈正五位」というのは、贈位、追贈、追賜という没後に位階を贈る制度によるものだそうです。
明治以降は、尊皇攘夷や明治維新で功績を挙げながら亡くなった人物等に贈られたようです。
碑の北側側面にはこう刻まれています。

大利鼎吉(おおり ていきち)は土佐藩の尊皇の志士であり、この地に潜伏中の慶応元年1月8日、新撰組の兇刃に斃れる。享年24歳。
この大利鼎吉なる人物、土佐藩という事は、坂本龍馬に詳しい方ならご存知なのでしょうか。
新撰組といえば京都というイメージがあるのですが、まさかこの大阪で新撰組の名を見るとは意外な感じがします。
ここで起きた事件を土佐勤皇党 ・坂本龍馬ルートで調べるか、新撰組ルートで調べるか迷いましたが、NHK大河ドラマ「新撰組!」を欠かさず観ていた事もあり、新撰組ルートから調べてみました。

この碑にある殺害事件の名は「善哉(ぜんざい)屋事件」と呼ばれています。
大利鼎吉を斬ったのは、谷三十郎・谷万太郎の谷兄弟他2名。
この谷三十郎・万太郎の弟が近藤勇の養子になる谷周平です。
池田屋事件にも参加したこの兄弟は、新撰組の隊士でありながら大坂の南堀江に道場を開く事を許可されていたという特別扱いを受けていました。
新撰組の大阪支店のような役割だったのかも知れませんね。
岡山県倉敷で「下津井屋事件」を起こし、大阪に逃れてきた和栗吉次郎という人物が、この谷兄弟の道場に転がりこんできたのが元治元年(1864)。
その和栗吉次郎がどのようにして知ったのか、大阪に潜伏する倒幕派の情報を入手し、谷兄弟に知らせた事が事件の発端です。
その倒幕派は土佐脱藩浪士達で、長州征伐のために出陣した幕府軍を混乱させるため、大坂城を焼き討ちし大坂を混乱させた後、上京して佐幕派の大名を討ち取る計画をしていました。
武者小路家家臣の本多大内蔵が、石蔵屋政右衛門と名乗り松屋町筋瓦屋町で経営していた善哉屋「石蔵屋」にその土佐脱藩浪士達は潜伏していました。
事件前、その善哉屋に潜伏していたのが田中光顕、大橋慎三、那須盛馬、そして大利鼎吉だったのです。
慶応元年(1865)1月8日、谷三十郎・万太郎兄弟は正木直太郎と高野十郎の2人の門弟を連れて瓦屋町の善哉屋に向かい、そして事件が起きたのでした。
この日この時、運悪く善哉屋にいたのは大利鼎吉そして本多大内蔵とその家族とされていますが、記録の中には太刀を振るう僧侶もいたとするものもあるそうです。
闘いは相当激しかったようで、新撰組側の記録には、正木直太郎が右腕を四寸ほど斬られ、谷三十郎も足を負傷、谷万太郎は胸元に当身を喰らったとの報告書が残っています。
中には大利鼎吉1人を討ち取るのに4人がかりで1時間も要したという話もあるそうです。
谷兄弟は池田屋事件にも参加し、道場を開くほどの腕前。
それに手傷を負わせてこずらせたというのは、先の太刀を振るう僧侶が現場にいたとしても、大利鼎吉は相当な剣の腕前だったと推測できます。
谷万太郎が近藤勇に送った報告書には「何気なく四人にて入り込み候ところ」と書かれています。
要するにこの善哉屋での斬り合いは、計画的なものではなく偶発的に起きた事件だったようです。

碑の「遭難之地」と記された横に、小さく人物名が刻まれています。


「正二位勲一等田中光顕」
この碑を建てたのか、大利鼎吉への贈位に尽力したのか。
この人物は、善哉屋事件の当日、運良く外出していて難を逃れた田中光顕その人です。
少し調べてみますと、田中光顕は明治新政府で宮廷政治家として大きな勢力を持ち、伯爵という華族にまで列せられ、宮内大臣にまで登りつめたのです。
そして昭和14年に97歳で没するまで明治維新から昭和という激動の時代を生き抜いたのです。
なんという運命なのでしょう・・・。
大利鼎吉は、その日、善哉屋に居たばかりに24歳の若さで「何気なく四人にて入り込み候ところ」の新撰組と激闘の末斬殺され、その日、たまたま善哉屋に居なかった田中光顕は大臣にまで出世し、明治・大正・昭和と生き抜いた。
この碑には、そんな運命のいたずらともいえる2人の記録が刻まれていたのですね。

松屋町筋に立ち碑を見ると、大利鼎吉が死の前日に詠んだとされる歌が刻まれています。

「ちりよりも かろき身なれど 大君に こころばかりは けふ報ゆるなり」

後日、こちらの碑をもう一度よく見てみますと、建立された年月日がちゃんと刻まれていました。

植込みで隠れていたので見落としていました。
昭和十二年二月三日建之
さらに、「奥野伊三郎」「前田重兵衛」と人名が刻まれています。


もうひとつ見落としていました。
こちらの碑の前に「BOW」というヘアサロンがあるのですが、その外壁に碑に関する案内板が設置されていました。
大利鼎吉が土佐勤皇党に入り、靖国神社に祀られるまで詳しく記されています。
こちらを読めばすべて解決でしたね・・・。

碑に刻まれた「奥野伊三郎」氏、「前田重兵衛」氏の名前をインターネットで検索してみますと、「大利鼎吉小伝」の寄与者と出版者としてヒットしました。
さっそくいつものように図書館に漁りに行きますと、書庫にありました。

昭和十二年六月一日に発行されたこちらの伝記は、編纂者が奥野伊三郎氏、発行者が前田重兵衛氏と記されています。
そちらに電話番号もあるのですが、番号の前に「南」や「土佐堀」と記されており交換手が取り次いでいた時代だったのでしょうか。しかも、市内局番が2ケタになっています。
時代を感じますね。

この伝記の中に「建碑に就いて」との一節がありました。
編纂者の奥野伊三郎氏は善哉屋事件の現場近くの生まれだそうです。
少年の頃、よく父から事件のことを「この血なまぐさい大騒動に近隣の人々は慄ひ上つて戸を閉め、誰れ一人表へでるものがなかつたという」と聞かされたのだとか。
これは実際にその現場を知る人でないと語れない臨場感ある話ですね。
松屋町筋の道路拡張工事までは、この事件のあった家屋が当時の姿のまま残っていたそうです。
拡張工事のためにあたりの様相が一変したのを機に、史跡を残そうと親友の前田重兵衛氏と相談し記念碑建設の計画を立てたというのが経緯なのだそうです。
そして、田中光顕伯爵に書翰を呈したところ、碑面の揮毫をして下さったと記されていました。

ちなみに、奥野伊三郎氏の親友にしてこの伝記の発行者である前田重兵衛氏は、この碑と同じ瓦屋町内にある菓子製造会社株式会社前田商店の代表取締役でいらっしゃいます。
といいましても、現在は四代目の前田重兵衛氏でして、伝記の発行人は先代の社長ではないでしょうか?
こちらの株式会社前田商店の創業はなと慶応元年!
老舗中の老舗であると同時に、善哉屋事件の起きた年と創業年が同じなのですね。
大利鼎吉小伝の中にも「老母お静と妻女おれんは北横町の前田なる家に潜んで一命を全うし、明治時代になつて両女は挨拶に来たが、その後は沓として消息を絶つた。」と善哉屋の家族のその後が書かれていましたが、ここに記された「前田なる家」とはもしかして初代前田重兵衛氏の家だったのでしょうか・・・?

地域の有志が建てて下さったこの碑。

壮絶な事件の現場とは思えないほど様変わりした現在の松屋町筋から、懸命に生きた維新の志士が忘れ去られないよう、私達に語りかけてくれているのですね。
そんな気がしました。



2013年7月3日水曜日

milkhall


大阪難波千日前のお好み焼き「はつせ」はとても有名なのでご存知の方も多いと思います。
その「はつせ」ビルの1階にダーツも楽しめるバー「milkhall」があります。

この度、イタリアンレストランもプラスしてリニューアルオープンされるということでプレオープンにお邪魔致しました。
大阪をこよなく愛する人間として、当然のように私もお好み焼きは大好きです。(こちら2階「はつせ」のお好み焼きは美味しいですよ!オススメです!)
同時に、イタリア料理も大好きでして、お店に入る前から唾液が・・・。
パブロフの犬?とはちょっと違いますね。
こういうのは医学的になんというのでしょうか?
好きと申しましても私の頭の中のイタリア料理はパスタ、ピザ・・・等々、お子様レベルなのですが。

店内はレストランというよりもバーの雰囲気が濃いですね。
黒を基調とした内装にポイントで赤い装飾が施され、とても落ち着いた雰囲気です。

フロアの中心にバーカウンターがあり、それを囲むようにゆったりと客席が配置されていました。
ざっと見た感じ40席くらいでしょうか。
外観から想像していたよりかなり広いなという印象でした。
テーブル席だけでなくBOX席もあるので、ちょっとした仲間内のパーティーなどもこちらなら最適かも知れませんね。


私はお酒がまったく飲めないもので、まずはコーラを頂きます。
もしお酒が飲めるならばせっかくのイタリア料理ですのでワインと楽しみたいのですが。
残念です。

そして、待望のお料理!
まずはオードブルから。
このテリーヌ美味っ!
黒い苦味のあるソースがとても合ってます。
ボリュームのあるので、お腹を空かせてきた甲斐がありました。
お魚は日本でいうところの南蛮漬けですね。
さっぱりしたお酢がさらに食欲をそそります。
オードブルからいきなりアクセル全開で食べてしまいました。

お次はトマトとクリームソースのコロッケ。
丸ごと口に頬張りそして噛むと、中からトマトの香りと酸味が効いたスープが飛び出してきます。
はふはふといいながら食べたのですが、これは初体験の味でした。
不思議な事に食べた後も程よい塩気が口の中に余韻として残るのです。
お菓子と比べたら料理を作られた方に失礼かもしれませんが、子供の頃に美味しいポテトチップスを心ゆくまで食べた後の余韻を思い出しました。
ポテトチップス好きの方にはわかっていただけるかと思います。
口に含んだ時は塩気は感じなかったのに不思議です。
1つで2度楽しめるという感じでしょうか。
どうやって料理したのかとても気になります。

そしてきました!パスタ!

蟹の濃厚な味が絶品です!
トマトソースと蟹の味は喧嘩しないのですね。
そして麺の歯ごたえが自宅で作るものとまったく違う事に感動!
いや、自宅のパスタも美味しいのですが、やはりプロの作る生パスタは私のような素人でも「全然違う」と断言できますね。
トマトの爽やかな酸味と蟹の磯の香りが麺に絡まり口の中でまさに花開くという感じでした。
思い出すとまたヨダレが・・・。

さらにお肉!
牛肉のタリアータというお料理だそうです。
初耳です。
私は写真を撮るのが下手なので、こちらの写真からはわかりづらいですが、ボリュームもありました。

なんと表現すれば良いのでしょうか。
美味い!としか言い様がありません。
ソースの酸味もあり、お肉の甘味もあり、スパイスの香りもあり・・・。
やはり知識がないと美味しさをなかなか表現できませんね。
そしてお肉が柔らかい!
世間的には高級と言われている某ホテルのレストランで食事をする機会が過去にたった1度だけあったのですが、そこで食べたステーキより絶対上だと思います。
あのステーキが最高だと思っていたのですが、さらにその上があるとは・・・。
そして、添えられた茸が明らかに家で食べているものと違うのに思わず笑いそうになりました。
はっきりと香りがするんですよ。茸の香りが。
これがまたお肉と良く合いますね。
milkhall様、本当にご馳走様でした。

最後に、とても美しい盛り付けのデザートもでたのですが、写真を撮るのを忘れておりまして、残念ながら省略させて頂きます。

今回、食事を堪能させて頂いたイタリアンレストランは通りに面した表側で、お店の奥側は以前同様にお酒を楽しみながらダーツで遊べるバーになっています。
今度はダーツにも挑戦してみようかな。

milkhallミルクホールHP
大阪市中央区難波千日前11-25はつせビル1F

2013年5月2日木曜日

大阪市立愛珠幼稚園


大阪市立愛珠幼稚園
先月20日に大阪市立愛珠幼稚園の一般公開があるとのことで行って参りました。
といいましても、子供の入園のためというわけではなく、重要文化財としての愛珠幼稚園の見学でした。
こちらの幼稚園は創立がなんと明治13年(1880年)という歴史ある幼稚園なのです。
現存するこの愛珠幼稚園舎は三代目であり、竣工が明治34年(1901年)です。
しかも、当時の状態とほとんど変わらずに健在であるという貴重なものなのです。
オフィス街の高層ビルに囲まれた風格ある木造和風建築なので、以前からぜひ中を見てみたいと思っていました。
この建物は現在も現役の幼稚園として使用されていますので、こういうご時世ですし、カメラを持って中をうかがうなどできません。
一般公開していただけるのは本当にありがたいです。
しかし、幼稚園長とPTA会長の名前で園内撮影禁止との説明があり、残念ながら中の様子はブログではお見せすることができません。
園児の安全を考慮してという趣旨から考えますと、文字表現であっても内部の間取りを公表するのはまずいかなと色々考えました。
ですので、かなりわかりにくい文章になるかも知れませんが、できる限りこの歴史的建造物の素晴らしさをお伝えしたいと思います。
初代愛珠幼稚園は現在の場所より御堂筋を越えさらに西の今橋5丁目5番地にあったそうです。
豊田文三郎という議員が
「小学校はほとんど全国に普及したが幼児の教育上欠くことのできぬ幼稚園は一、二に過ぎない。当連合町は全国に率先して町立幼稚園を設立し幼児保育の効果を社会一般に知らそう」
と建議したのがきっかけで誕生したのが初代愛珠幼稚園です。
日本全国で幼稚園が1、2しか存在しない時代に、この発想は凄いですね。
初代愛珠幼稚園は戸長役場と民家を修理改造した園舎だったそうで、敷地は376.5㎡ほどだったようです。
東京お茶の水付属幼稚園保母練習科の卒業生を招聘し、かなり好評だったのか創立わずか4年で園児が120名を数え、園舎狭隘のため今橋3丁目(トレードピア淀屋橋の南西)の鴻池善右衛門持家を修理して移転しました。
二代目園舎は敷地が813㎡とかなり広くなりました。
しかし、園舎の構造に問題があり、光線が不足し暗く、冬は寒く、「音響に異常を生ずる等の不便」もあったそうで、運動場はむしろ初代園舎の方が広いといった状況だったそうです。
二代にわたる園舎の不備を正し建築されたのが現在の三代目園舎なのです。
この三代目園舎の原案は、当時の保母が墨画でスケッチしたそうです。
私はここに愛珠幼稚園が明治から現在に至るまで、当時の姿のまま残った理由があるように思います。
現場のプロが原案を作ったわけですから、時代が変わっても園児にとって最適な構造になったのでしょうね。
明治時代といえば、なんとなく堅苦しいイメージがありますが、もしかすると現代以上に柔軟性のある行政がなされていたのではないでしょうか。

井桁と吹寄せの襷格子の門扉
一般公開には多くの見学者が参加されていました。
勝手な印象ですが、どうも重要文化財の見学というよりも、入園を目的とした父兄の見学といった雰囲気の参加者が多かったです。
建物内に入るのに20分くらいは並んだと思います。
おかげで門からじっくり見学できました。
この風格ある門扉は、武家の門に多く用いられた形式だそうです。
向かって右側の通用門は、自動的にしまるように工夫されていたそうで、その時用いられた門開分銅も現存しているそうです。
素晴らしい工夫ですね。
門を入ると整石の敷石が三方に伸び、正面は大寺院を思わせるような堂々とした本玄関に通じています。
その左手の植込みには清水多嘉永志作「植樹の像」があります。

「植樹の像」清水多嘉志作
そして、残念ながら撮影は玄関まで。
玄関から廊下を挟んでメインの遊戯室が見えるのですが、撮影するとまずいかなと思い、玄関の天井まで撮影してデジカメの電源を落としました。
玄関の格天井
外部から見た場合、一番大きな入母屋屋根が遊戯室です。
この遊戯室を写真でお見せできないのが非常に残念です。
言葉ではなかなか素晴らしさを表現できません。
広さは63坪ほどだそうですが、とにかく明るい。
昼間なら照明が不要なのではないでしょうか。
遊戯室の部分は身舎なのですが、西洋の教会のような高窓(クリア・ストーリーというそうです)が三方にあり、ここからの採光が明るさの理由だと思います。
南西北の三面に鉄製の二階式回廊が回っており、支える鉄柱はむき出しのH型鋼です。
メジャーを持っていたので測ってみますと、フランジ幅240mmウェブ高230mmフランジ厚30mmでした。
なにやら刻印されているので必死になって目を凝らして見ると「SEITETSUSHO YAWATA」と陽刻されているではありませんか。
あの官営八幡製鐵所で製造されたH型鋼なのです。
高さのある天井は、玄関と同じく格天井となっていて、和風のアクセントとなっていました。
東側壁面には明治34年から変わらず時を刻み続ける大時計が懸かっています。
本当に、よく戦災に遭わず残ってくれたと感謝したいです。

遊戯室を出て廊下を渡ると摂生室という部屋があり、そこが唯一畳敷きの部屋でした。
摂生室という名前から推察して医務室みたいなものでしょうか?
床の間もあり、医務室のイメージとはかけ離れたものでしたが、ここには「成人在始」と書かれた書が飾られていました。
張賽という清国の人物(後の清国農商部総長)が、愛珠幼稚園に来園し贈った書だそうです。
海外の要人が視察に訪れる先進的な施設だったということですね。

その他にも面白かったのが、トイレが独立した造りになっていたことです。
独立しているので明るく通気が良い。
外側から見るとちょうどこの部分だと思います。

本当に子供のために考え抜かれた設計になっていますね。

運動場は、コの字に回る園舎の廊下に囲まれ、ちょうど中庭のような感じです。
ここにも工夫がされており、運動場とそれを囲む廊下の高さが同じなのです。
バリアフリーですね。
高さが同じという事は、運動場は盛り土ということです。
排水などを考えると、建物の基礎にも相当な工夫がなされていると想像できますね。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」の一節に
「明治維新によって日本人は初めて近代的な「国家」というものをもった。誰もが「国民」になった。 不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。 この痛々しいばかりの昂揚が分からなければ、この段階の歴史は分からない。」
とありますが、その昂揚がこの愛珠幼稚園から強烈に感じられた気がしました。

一般公開は年に二度ほどあるそうです。
一般公開時でなくても、この簓子下見板張の高塀の周囲を歩くだけで雰囲気は楽しめると思います。

明治の船場の心意気がしのばれる名建築だと思います。

2013年4月10日水曜日

岸本瓦町邸

松屋町筋から西へ東横堀川にかかる大手橋を渡ると、目の前にクリーム色の風格ある邸宅があります。
その英国調の堂々とした建築物は、大手橋を渡る者の関心を必ずひくでしょう。
岸本瓦町邸
岸本瓦町邸。
昭和6年(1931)に鉄鋼商の岸本吉左衛門の本邸宅として建築されたそうです。
平成10年に登録有形文化財として登録されております。

この建物だけをじっと眺めていますと、どこか外国にいるような錯覚に陥ります。
ぜひ建物の中も拝見したいのですが、現在も事務所として使用されているそうで。
建築主の岸本吉左衛門が美術コレクターだったこともあり、中には貴重な美術品も保管されているとのこと。
なるほど、窓という窓にシャッターが装備されているわけです。

石貼りの外壁は「竜山石」が使用されています。


間近に見ますとこの外壁、指で削れそうなほど柔らかな風合いと淡い色合いがなんともいえません。
「竜山石」に関してはこちらのサイトに詳しく紹介されています。
石の文化を創り続ける「竜山石」
住友銀行本店ビルにも同じ竜山石が使用されているのですね。

もっとこの邸宅について知りたいのですが、私の探し方が悪いのか、なかなか詳しい資料にめぐり合いませんでした。
ですが、建築主である岸本吉左衛門についてはその自伝を読むことができました。
「鐵屋のぼんち」「続・鐵屋のぼんち」と題された自伝なのですが、本当に面白かったです。
明治・大正・昭和初期が大阪商人の目から描かれており、政治、経済、風俗、名士との交流、海外の様子、商売での苦闘、人生哲学、果てはお菓子の話からホテル談義まで。盛りだくさんの内容でした。
それだけにご紹介したい事がたくさんあるのですが、書ききれる量ではないのでほんのさわりだけご紹介致します。

明治末期・大正初期のイギリス中流家庭や大阪船場の商家の食事とは、どのようなものだったかご存知でしょうか?
「鐵屋のぼんち」に記されていた内容を少しご紹介致します。
岸本吉左衛門は洋行の際、イギリスの中流家庭に滞在されたようです。
そこで経験した家庭料理とは。
  • 朝食・・・必ずポリッヂがでる。英国ではオートミルとは言わない。ポリッヂという。英人でも砂糖とミルクをかける人が多いがスコットランドでは塩を用いる人の方が多いらしい。英国では朝の食事と午後のお茶の時に限りこのブレッドエンドバターと一語で言い切る特種品がある。薄く切ったパンに一面に薄くバターをぬり、これを朝食には大皿に盛り上げて各自が自分のパン皿に取り、ママレードをつけたり、又ヂャムをつけたり、又そのまま食い、次のベーコン・エッグの一皿と共にこれだけの朝食を食うのは欧州でも英国だけの特別慣習らしく、私も初めはポリッヂだけか卵だけで御免蒙ったが慣れてくると英国からパンとコーヒーだけの常朝食の国へ行くと物足りなく感じるのであった。英国では朝食は大体コーヒーではなく紅茶らしい。
  • 昼食・・・主婦など家庭の者は昨夜のデナーの残りとか、チーズとパン位の軽食、外勤者はこれ又軽食が多く、ABCという軽食屋がいたるところにあり、ノーチップの女給さん、食物はパン、スコーン、パター、チーズ、肉類は精々1~2種、ステーキアンドキドニーパイか、マトンシチウ位のもの。飲み物は牛乳、紅茶、コーヒー。又このABCのアップルパイは大型でこれひとつで昼食代りにする人も多い。
  • 夕食・・・大体7時か7時半、スープのある夜もあるが一品とデザート、一週六夜の過半はマトンで、あとは豚、トリ、サカナ。デザートは子供たちが満腹感を得る物が多い。アップルパイ、タピオカプデング。カスタードソースといのが牛乳、卵、メリケン粉で一寸生クリームの感じを出してある。子供たちはこれを大皿にとる時こぼれますよ、とよくお母さんに叱られる代物である。
よくイギリスの料理は不味いと聞きますが、こうやって文章を読むとよだれが出そうになります。
大英帝国の家庭料理ですので、これが当時の世界で一番贅沢な食事と言えるのではないでしょうか。
そして同時代の日本。
船場の商家の食事風景です。
  • 朝食・・・船場と限らず、大阪の商家の朝食といえばオコーコ、即ち沢庵と飯だけというのが普通であり、関東のように朝食は味噌汁というのは大阪にはあまりなかったらしい。主人側、奉公人、両方で二十何人という大家族の飯の分量は飯炊きの朝食を前夜の残り、即ち冷飯ですませるか、又朝早く炊かねばならぬか、奉公人数人の出入りによっても違うが朝食は冷飯でも皆だまっていた。
  • 昼食・・・昼はお惣菜一種。だしジャコか、油揚げ、が味の素で菜っ葉、大根、かぼちゃ、白瓜、おあげさんと称する油揚げと豆腐、高野豆腐、コンニャク、メイと称する関東のヒヂキに似たもの等、これらの繰り返しで家によっては16とか27とか大体食物を決めている家もあり、豆腐の味噌汁の日もあれば、コンニャクを細く切り汁に入れ、ショウガのしぼり汁をきかせたものなどは今も僕の郷愁をそそる。
  • 夜・・・夜は若干ご馳走で、英国のデナーにあたるといっても商家のお惣菜といえば魚といえばアジ、サバ程度。当時の大阪にはグチという五六寸の魚があったが現今は見かけない。16とか1日と15日とか赤飯を炊く家、番頭さんだけに一本お酒のつく家、私の家では倉方という肉体労働の専門家連中はこの恩点に浴していた。昼は主人側も奉公人と食事を共にする家が多いが、夕食は主人側は一族だけ奥の座敷で女中のお給仕で食事となる。
どう思われますか?
肉がまったく登場しません。
牛丼をいつでも食べられる現代日本は本当に幸せですね。

岸本吉左衛門という人物は、曽祖父の泉屋吉右衛門のころから続く鉄を扱う商家の跡取りでした。
それで自伝が「鐵屋のぼんち」なのですね。
日清日露戦争で鉄生産に目覚めた日本。その後の第一次世界大戦による鉄需要で鉄成金・船成金が出現したことはご存知だと思いますが、その鉄成金に名を連ねたのが岸本吉左衛門その人です。
当時の鉄の価格を参考にして下さい。

第一次世界大戦は1914年から1918年にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦ですが、特に終盤の2年間の銑鉄価格の高騰が凄まじいですね。

「銑鉄」というのは、鉄鉱石を石炭・石灰・マンガン鉱石などを使い還元したものをいいます。
この銑鉄を使って製鋼するのが製鋼業です。
岸本吉左衛門が経営していた岸本商店は、この銑鉄を主に英領インドから輸入する会社でした。
インドの鉄鉱石は鉄の含有量がとても高く、よって石炭などの他の原料も少量で済むのでとても安価でした。
しかし、日本は日露戦争後、大陸に進出し鉱山を開発などするわけですが、そこに資源に関する対立が生まれたのでした。
質・価格ともにインド銑鉄に勝てない大陸資源を扱う財閥系企業は、カルテルを結成してインド銑鉄に対抗します。
「銑鉄も日本の勢力圏内で調達すべきだ!欧米からの輸入に頼っていたら有事の際にどうする!」というわけです。
岸本吉左衛門は、インド銑鉄の輸入業者として槍玉にあげられました。
岸本吉左衛門曰く「一朝事あらば海外から銑鉄は輸入できないと仰せられるが、銑鉄の輸入が出来なくなればその4倍もの鉄鉱石と石炭の輸入は一層困難、否不可能となる。これは子供でもわかることである。」
なんとなく、現代のTPP交渉参加問題にも通じるものがありますね。
事実、その後の太平洋戦争で通商破壊を受けた日本は、極度の物資不足に陥りました。
カルテル側が、重い関税をかけるよう政治力を使ったり、ありとあらゆる手を使ってインド銑鉄を日本から駆逐しようとする中で、必死に対抗する岸本吉左衛門ですが、結局インド銑鉄は日本から追い出されてしまい、そしてご存知のように日本は英米との対決への道に進んでいくのです。

岸本吉左衛門が自伝の中で

「私は思う。満州投資を印度へ投入していたら、印度の製鉄へ日本の力を政府が本腰を入れていたら、大東亜戦争なるもの、大きく言えば亜細亜の地図、現在のものとは違うのぢゃないか。」

と語る一節があるのですが、政治家とはまた違った、国家の運命を左右する資源を扱ってきた商人の重い言葉だと感じました。

岸本瓦町邸から思わぬ面白い本にめぐり合えたのは実に幸運でした。
明治・大正・昭和という激動の時代を船場商人が語るという、普通の歴史書とはまた違った景色が見えた気がします。

大阪市中央区瓦町1丁目2番1号

2013年3月13日水曜日

住友銅吹所

自転車で心斎橋に向かう際には、松屋町筋から交通量の多い長堀通に左折せず、もう一本南側の道をよく使います。
その際、島之内の町内に入るとすぐに、かなり大きなビルとその敷地内の綺麗に管理された小さな公園が目に付きます。

大きなビル

小さな公園
その小さな公園には、土蔵のような洋風の小屋のような、言葉では表現しづらい和洋折衷の建物が建っています。

ビルの方は、三井住友銀行鰻谷センターだそうです。
公園の方はと自転車を降りて周囲を歩いてみると、ありました。
「住友銅吹所跡」という碑が。

説明の看板も銅板でしょうか?風格がありますね。
住友家が銅で財を成したということは知っていましたが、ここがその本拠地だとは知りませんでした。
しかも、日本の生産量の3分の1をここで生産していたとは驚きです。
江戸時代の大阪には、銅の精錬を行う銅吹屋や銅を扱う商人のほか、加工職人も多く住んでいたようです。
特に、この島之内周辺には銅吹所が多く、北の天満には銅細工職人が集まっていました。
長堀通は今でこそ幹線道路になっていますが、江戸時代は文字通り「堀」でした。
インゴットになった銅を運搬するのに、長堀という運河が便利だったのでしょうね。
そして、この周辺はその昔「鰻谷」と呼ばれており、名前から察するにウナギが獲れるような都市周縁部だったようです。
今でも東心斎橋あたりで「鰻谷町内会」という名の町内会がありますし、心なしか鰻屋さんも多いように思います。
銅の精錬は火を使いますし、騒音も出るでしょうから、そのような都市周縁部の新開発地に精錬所ができたのだと想像できます。
嘉永期の泉屋住友本宅図
三井住友銀行鰻谷センターの北側壁面には、上の写真のような古文書のコピーがガラスのショーケース内に飾られずらりと並べられています。
主に「鼓銅図録」という住友家が作成した銅精錬についての書物に描かれた図が展示されているのですが、それがなかなか見ごたえのあるものなのです。
銅山で採掘された銅は、山元で純度90%程度の「荒銅」に精錬され、大坂で純度99%以上にまで精錬されます。
その採掘から棹銅と呼ばれるインゴットになるまでの工程を、江戸時代の絵師によって詳しく描かれているのです。
間吹図
上の迫力ある絵を見ても、当時の精錬作業は相当危険なものだったという事がわかりますね。

公園内には当時の炉が展示されています。
銅吹所の炉
下の絵のように使われていたのでしょうか。
南蛮吹

展示されている絵図にはそれぞれ現代語の説明文もありますので、精錬の概略を知りたい方にはオススメです。
江戸時代の鎖国日本において、対オランダ貿易における銅の割合は、1757年にはなんと93%を占めていたそうです。
輸出された銅は欧州にも運ばれ、その量は1670年代に当時の欧州で最大だったスウェーデン銅の3分の1~2分の1にまで達するほどだったとのこと。
アダム・スミスの「富国論」にも「日本の銅は欧州の銅価格に影響を与えるだろう。」と指摘されています。
鎖国しているはずの日本が欧州の経済に影響を与えていたなんて。
そして、その銅がこの大坂で生産されていたのですから、天下の台所の名は伊達じゃなかったのですね。

そして、公園の東側に位置する和洋折衷の気になる建物。

瓦葺なのにドアや窓は洋風という、面白い趣きの建物です。
特に南側の入り口が面白い。

明治9年に銅吹所が廃止された後、ここは住友家の邸宅として使われたそうです。
そしてこの建物は、ビリヤード場だったのです。

説明看板によると、このビリヤード場は独立建物のビリヤード場としては、わが国最古のものだそうです。
側を通る度に面白い建築物だと思っていましたが、そのような貴重なものだったとは。

こちらの公園はとても綺麗に管理されており、日当たりも良いので、気候が良い日にはこのビリヤード場を眺め、住友家邸宅の庭園を想像しつつ、お昼を食べるのも良いかもしれませんね。

住友銅吹所跡周辺図

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