2013年12月13日金曜日

ミナミの筋と通と旧町名

「心斎橋筋の手前って畳屋筋?笠屋筋?」
お客様との会話から始まった筋と通の話。
ミナミを仕事場としておきながら、瞬時に答えられなかった事がとても悔やまれ、復習のつもりで描いてみました。


諸説あるようですし、同じ筋で複数の名を持つ場合もありますが、オーソドックスかと思われる筋と通の名をざっくりと描けばこのようになると思います。

こうやって描いてみると、疑問が出てきます。
なぜこの名なのか?
なぜ東西方向の道なのに「筋」なのか?
少し調べてみますと、さすがミナミですね。
資料が山のように存在します。
その山の中から「これだ!」という真実を追究するのはさすがに諦め、徒然と面白そうなのをチョイスしてみました。

まずは、筋と通の名です。
江戸時代まで遡ってみます。


宮本又次著「心斎橋由来記」より
なんと細かい!
ですが、町名を聞けばそのエリアがどういった雰囲気なのか判り易いですね。
例えば、心斎橋筋は錺屋(かざりや)町、木挽町、菊屋町から成り立っていたそうです。
錺屋は金物細工の職人の町だったとわかります。
木挽町も同じく材木を扱う職人の町だったんだろうな~と想像できますね。
菊屋町も菊の花を売る・・・と思ったのですが、どうもこの菊屋とは屋号若しくは商人の名だったようです。
大阪では、その開発者、主だった居住者、町年寄の名号を町名にしたものが多いとか。
玩具の町である松屋町筋は、豪商松屋の居宅が広かったためその名がつき、玉屋筋の玉屋町は玉屋治左衛門より、そして我らが宗右衛門町は山ノ口宗右衛門という町年寄にちなんだと言われています。

この江戸時代の町名が、どのように変化したか?
南区が東区と合併し中央区になる以前のミナミの町名も描いてみました。



現在の島之内地区まで広げた地図です。
ミナミの町名が筋と通の名とほぼ一致しています。
大阪市には「大阪の歴史を掘り起こし、わが街意識を育て、市民と行政ともどもが街の歴史を刻んだ町名を通じて、郷土意識の涵養を図ることを目的として」『旧町名継承碑』というものがおよそ300以上設置されています。
ミナミに存在する『旧町名継承碑』の一部から町名の由来をみてみましょう。

まずは、東清水町。


中央小学校の南側に設置されています。


少し反射で読みづらいですが、ご容赦下さい。

『東清水町』
 当町は明治初期、大坂三郷南組の岩田町・綿袋町の全域および中津町の一部であったが、明治五年三月各町をもって東清水町となった。同十二年二月南区に、同二二年四月市政施行にともない大阪市南区東清水町となった。平成元年二月南区は東区と合併して中央区となり、同日付の住居表示実施にともない新しい心斎橋筋一丁目・東心斎橋一丁目の各一部となった。町名は、「このあたりに麗泉涌出して清水町と名づく」と「摂陽奇観」にもあることに由来し、冠称の「東」はその
清水町の東部に位置することによる。

このように紹介されています。
なんと明治5年から平成元年まで続いた町名だったのですね!
南区と東区が合併し、町名が失われる事にはかなりの反対があったと聞いた事があります。
気持ちはとてもよくわかります。
ですが、最終的にそれを受け入れた当時の南区民・東区民は素晴らしい!
行政の住居表示から旧町名がなくなっても、今も人々の生活には昔からの町名がしっかりと息づいているのですから。
ちょうど、今の大阪も都構想という大きな選択の時を向かえていますが、そういった変化をドンと受け入れる度量がこの街の人々には昔から備わっているのですね。
歴史ある街に代々生きる人々の自信が感じられます。
時代や経済圏が変わり、それに伴い行政区画が変わっても、未だに私たち今に生きる者の会話の中で旧町名が使われているのですから面白いですね。

東清水町からみて北側の鰻谷町。
こちらは現在、鰻谷北通と鰻谷南通が東西に走っています。
鰻谷町の歴史はこちらの鰻谷商店街HPにわかりやすく紹介されています。
鰻谷の歴史 鰻谷商店街
こちらの解説によれば『慶長14年の三津村検地帳に「おなぎだに」の名が見え』るとのこと。
慶長ですからまだ豊臣氏の大坂城の時代ですね。徳川家康が生きてます。
由緒ある町名ですね。
鰻谷北通には現在「川柳通り」との通称があるそうです。
街路灯には3ヶ月に1度公募により選抜された川柳が掲示されています。
そしてこのマーク。


車止めのポールにも

私はこのウナギのマークをとても気に入っています。
シンプルでどことなくユーモラスでそれでいてオシャレでもある。
海外からの旅行者に感想を聞いてみたいですね。
鰻谷の南北通で旧町名継承碑を探しましたが見つけることができず、東へ移動。
島之内の住友銀行敷地内にある鰻谷東之町の旧町名継承碑を訪ねました。

ここは住友銅吹所の跡地でもあります。


これによると、この島之内一丁目の住居表示実施は昭和57年7月となってます。
東清水町は平成元年でしたから、あちらよりも数年早く町名変更されたのですね。

元来た道を引き返し、堺筋を渡り、今度は笠屋町の旧町名継承碑です。

周防町筋に面し、ちょうどコンビニエンスストア・ポプラの筋を挟んだ向いにありました。

どうも、この旧町名継承碑は光の反射の具合で読みにくくなるようですね。
肉眼でも読み辛かったです。
笠屋町は町名の遍歴が面白い。
道頓堀漆師屋町→傘屋町→笠屋町と変化したそうです。
和傘には漆が使われていた関係からこのような遍歴をたどったとか。
和傘に漆が使用されていたとは、恥ずかしながら初めて知りました。


さて、ここで唐突に「なぜ東西の道なのに筋なのか?」という疑問について。
大阪の道路は、南北が「筋」で、東西が「通」と称するのが一般的だと言われています。
最近では、周防町筋をヨーロッパ通というふうに「通」と呼び変えている場合もありますが、しかし、ここミナミでは東西の道も筋と呼ぶケースの方が多いですね。
それは、例えば「東横堀川」や「西横堀川」のように、南北が「横」と認識されていた歴史が関係しているのではないかと言われています。
要するに、昔の大阪では、東西こそが「縦」であり、表通りだったのです。
私もそうですが、道路を説明する時に自然と「あの筋を~」と表現します。
元来、大阪ではそれほど筋と通の区別が厳密ではなかったのではないでしょうか?
それゆえ、大阪の中でも特に歴史が古いこのミナミでは、表通りであった東西の道路を「~筋」と呼び、その呼称が現在まで残ったのではないかと思われます。
この問題は奥が深そうなので、引き続きじっくり調べていきたいと思います。

最後に、現在のミナミの町名を描いてみました。



見比べてみると、本当にシンプルになりましたね。

追記

今朝、店舗の計測で訪れた宗右衛門町で玉屋町の旧町名継承碑を発見しました。
宗右衛門町2番の南ビルの植え込みの中にひっそりと佇んでいました。

これによると、町名は玉屋治左衛門が居住したことに由来するとのこと記されていました。


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