2013年2月13日水曜日

井原西鶴

井原西鶴像(生国魂神社境内)
関西商品取引所が昨日12日、国内で唯一コメ先物取引を扱う取引所となり「大阪堂島商品取引所」と改称したというニュースがありました。堂島の名称は実に74年ぶりの復活だそうです。
1730年(享保15年)に堂島で始まったコメ先物取引は、デリバティブ取引の起源とされています。
その頃より少し遡った元禄時代の偉人であり、教科書の有名人でもある井原西鶴の史跡を訪ねました。(訪ねたといいましても、ほぼ通勤ルート上なのですが。)

井原西鶴文学碑

大阪府行政書士会中央支部の総会やその他イベントでよくお世話になっております本町橋のシティプラザ大阪の西側、ちょうど阪神高速道路の本町出口を降りたすぐ横の植え込みの中に、井原西鶴文学碑が建っています。
黒御影石に刻まれているのは、世界初の経済小説と言われる『日本永代蔵』の一説が刻まれています。



井原西鶴文学碑文

その文学碑の台座の部分には、井原西鶴の生涯についての説明文が刻まれていましたのでここに紹介致します。
井原西鶴、本姓平山氏通稱藤五
寛永十九年(西暦一六四二)大阪の富裕な町人の家に生まれたが、俳諧師として世に立ち、晩年は専ら浮世草子に筆を執った。俳名初め鶴永、後西鶴と改む。談林の祖西山宗田門人、軽口狂句を得意とし、一夜一日二萬三千五百句獨吟の記録を樹てた。しかし西鶴の名を不朽ならしめたものは、その小説の作である。處女作好色一代男を初め好色五人女・好色一代女・男色大鑑・本朝二十不幸・武道傅来記・日本永代蔵・世間胸算用・西鶴織留等およそ二十三部の小説は、獨得の俳諧的文章を以って元禄時代の世相風俗を活冩するばかりではなく、時空を超えて普遍的な人間の営みの姿と心のかなしさをよく傅へ得て明治以後のわが国近代小説に大きな影響を興へまた英・獨・佛・ソ各国語に飜譯せられて、世界文学の代表的作品として高く評価せられている。元禄六年(西暦一六九三)八月十日、五十二歳を以って歿した。      芳名仙皓西鶴。墓所は南区上本町四丁目誓願寺にある。
少し調べてみますと、生まれに関しては諸説あるようですね。
遠いところでは和歌山県の日高川町役場のホームページに、日高川町が井原西鶴生誕の地だと紹介されています。
日高川町HP西鶴記念交流館
そして、驚くべき話は、一昼夜で2万3500句の俳句を吟じたとい記録です。
これはもしかすると、呼吸をするたびに俳句を読むようなペースでないと達成できない記録ではないでしょうか?
この記録を樹立したのは、1684年(貞享元年)摂津住吉社頭においてなのですが、それ以前にも大坂生玉寺内で一日一夜4000独吟など達成しているのです。
井原西鶴が入門した西山宗因の一派は談林派と呼ばれ、このような奇抜な興行を特徴としていたようです。
井原西鶴はまず、俳句の世界で華々しくデビューしたわけですが、そこから浮世草子にどう結びつくのか。
俳諧は、当時の旦那衆の間で流行っていた文化でした。
当然、そういった旦那衆の集まる文化サロンには最新情報が集まりやすく、浮世草子のネタも集まるという寸法だったのではないでしょうか。
加えて、時代背景もあると思います。
1671年に河村瑞賢が東廻航路を開き、翌年には西廻航路も開通します。
日本各地のコメが大坂に集まり「天下の台所」と言われる時代の幕開けだったのです。
鴻池や住友が頭角を現すのもこの頃で、江戸時代の「高度成長期」でした。
当然、ネタも豊富だったわけです。
『日本永代蔵』の中にも、北浜に荷揚げされる年貢米を検品する際にこぼれ落ちた米粒をかき集めて日々の糧としていた老女とその息子が、大名相手に金を貸すほどの大商人に出世する物語が描かれています。大坂ドリームですね。
こんなネタがあるのですから、なるほど浮世草子も書きたくなるわけです。

所変わって、谷町3丁目2番の歩道の植栽には、井原西鶴終焉の地を示す碑が建っています。

谷町筋に面し、交通量も人通りも多い場所ですが、この歩道を歩く方々は気づいているのでしょうか?
私はこの場所を数え切れないほど通りましたが、恥ずかしながらその存在にまったく気づいていませんでした。
「此界隈井原西鶴終焉之地」と角石柱に記されています。
石碑にはこのように刻まれていました。

碑表
難波俳林松寿軒西鶴 世辞 人間五十年の究りそれさへ我にあまりたるにましてや浮世の月見過ごしにけり 末二年 元禄六年八月十日五十二才

碑陰
元禄六年八月十日井原西鶴はこの地谷町三丁目(旧錫屋町)東側で没した。享年五十二歳。西鶴没後三百年を記念して、この碑を建てる。
平成五年九月二十五日
西鶴文学会
こちらの石碑を建てる際には、かなりの苦労があったようです。
西鶴文学会が建碑運動に乗り出したのが昭和45年、そして西鶴290回忌にあたる昭和57年に建立すべく大阪市と粘り強く交渉しつづけたのですが、位置が谷町三丁目交差点東南角地で交通妨害になるという理由から断念せざるを得なかったそうです。13名の建碑発起人は、開高健・富士正晴・藤沢桓夫・足立巻一という錚々たる顔ぶれであったにもかかわらず。
そして、西鶴没後300年を記念して、今度こそ!と大阪市と交渉を重ね、やっと認可され建立されたのがこちらの記念碑なのだそうです。
角石柱には他にも、1968年ユネスコにおいて井原西鶴が世界偉人の1人に選ばれた事や、「大晦日さだめなき世の定めかな」と井原西鶴の俳句が彫り込まれています。
大晦日さだめなき世の定めかな
『世間胸算用』は、大晦日の金にまつわる話ばかりを集めたという面白い形式の浮世草子ですが、その中にも「世の定めとて大晦日は闇なる事」という一節があります。
私たち現代に生きる者にとっても、これは重い言葉ではないでしょうか。
著しい経済発展と過当競争の元禄時代の町人達が、年を越すために金銀に翻弄されながらも力強く生き抜く姿は、現代の物語に仕立て直しても違和感は無いと思います。

ところで、井原西鶴が没した地が「鑓屋町」だと記した文献が数多くあります。
一方、こちらの碑文には「谷町三丁目(旧錫屋町)」と刻まれています。隣接していますが、鑓屋町と谷町三丁目は別の町です。
どちらが正しいのでしょうか?
作家の桝井寿郎氏が、大阪春秋第67号の中で以下のように考察されていました。
西鶴没後に出版された「西鶴名残の友」の文中に、西鶴庵の様子が西鶴自身の手によって記されているのです。
その中に、「南となりには・・・」「北隣には・・・」と書かれている部分があるのですが、そのことにより、井原西鶴が没した西鶴庵は南北筋に面した場所だったとわかるとのこと。

赤印は井原西鶴終焉の地石碑
南北筋の谷町筋に面しているのは、鑓屋町ではなく谷町三丁目(旧錫屋町)です。
よって、西鶴が没した西鶴庵は、現在石碑が建っている場所にあったのではないかというわけですね。
説得力があります。
しかし、このあたりの区画は元禄時代から変わっていないのでしょうか?
古地図があれば見比べてみたいですね。


そして、次なるは井原西鶴の墓所、上本町西4丁目にある誓願寺です。

誓願寺
門を入りますと左手に、武田麟太郎の著した「井原西鶴」の一節で誓願寺が登場するくだりが刻まれた文学碑が建立されています。
武田麟太郎文学碑
奥に進むと墓地になっているのですが、井原西鶴のお墓は・・・すぐにわかりました。
墓地の入り口の真正面奥に位置するので、とても目立ちます。
墓には戒名の「仙皓西鶴」が彫られています。
このお墓、建立されしばらくしてから所在が不明になっていたようなのですが、一説によると井原西鶴に傾倒した幸田露伴が、無縁墓地に混じっていたのを発見したとのこと。
墓を建てたのは、北条団水という井原西鶴の後を継いだお弟子さんなのですが、この北条団水という人物。実は井原西鶴作品の大半を書いた張本人だという説を、森銑三という方が提唱しております。
このような刺激的な説が飛び出すのもまた、井原西鶴の魅力でしょうか。
井原西鶴をひもとけば、目の前に江戸時代が見え、同時に今を生きる人々までも見えてくる。なのに、森銑三説が飛び出すようなどこかしら謎めいた雰囲気も併せ持つ。
だからこそ、幸田露伴を初めとして、多くの文豪や学者を魅了し続けているのでしょうか。

最後に、墓の傍らに建つ文学碑に刻まれた井原西鶴直筆の句を紹介して終わりたいと思います。
鯛は花は 見ぬ里もあり 今日の月

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