2013年2月25日月曜日

懐徳堂

富永仲基「出定後語」、山片蟠桃「夢の代」、上田秋成「雨月物語」。
この江戸時代の人物がどういった人で、その著作物がどういった内容なのか、まったく理解しないまま、とにかく日本史の教科書に載っているキーワードとして、何度も紙に書き頭に詰め込んだ記憶があります。
この3人を結ぶのが「懐徳堂」です。
その「懐徳堂」とは何か?
井原西鶴の墓がある誓願寺を訪れた際に、このような碑が建っていました。
誓願寺 門横の碑
「井原西鶴先生墓」の他に「波華懐徳堂」や「中井甃庵先生墓」「同 竹山先生」「同 履軒先生」と刻まれています。
寺内では、「懐徳堂と中井家」と題した説明資料がありました。
懐徳堂は、江戸時代中期の享保9年(1724)に大坂の有力な町人たちによって建てられた学校である。
資料に記された「懐徳堂」の説明です。
先に書きました富永仲基、山片蟠桃、上田秋成は、この「懐徳堂」で学んだ門人なのです。
誓願寺の説明資料を読み、興味が沸いたので少しばかり調べてみましたが、この「懐徳堂」はとても奥が深い!
現在も哲学、思想、歴史分野の高名な教授が研究し続けている「懐徳堂」を、少しかじった程度で理解することは不可能だと思いましたが、同時に大阪の歴史を知る上で、必ず押さえておかなければいけない重要なものだとも感じました。

私が心惹かれた「懐徳堂」の特徴は
  • 町人によって作られ運営された学校
  • 江戸時代とは思えない自由な精神
  • 知のネットワークの広さ
この3点です。

江戸時代の学校には
・民間の学者等が個人で開設し門人を教育した「私塾」(緒方洪庵の適塾、シーボルトの鳴滝塾等)
・藩校と寺小屋の中間的役割を担ったとされる「郷学」(岡山藩の閑谷学校等)
・藩士教育のために藩が設立した「藩校」
がありました。
「懐徳堂」は、当初民間の力のみで創設され、2年後に江戸幕府から学校として公認されるという、半官半民の特徴ある学校でした(よって大阪学問所とも呼ばれた)。
「懐徳堂」は、5人の有力商人の出資により創設されました。
三星屋武右衛門、道明寺屋吉左右衛門、舟橋屋四郎右衛門、鴻池又四郎、備前屋吉兵衛の5人の大坂商人は「五同志」と呼ばれ、「懐徳堂」を創設したのみならず、商人としての才能を生かして基金を運用し、「懐徳堂」の財政を支え続けました。
「懐徳堂」の運営は、学務と校務に分担され、学務の最高責任者を「学主(のちに教授)」といい、校務の最高責任者を「預り人」と呼ばれました。
五同志は、初代預り人となる中井甃庵と図り、三宅石庵を初代学主として迎え、その140年余りの歴史をスタートさせたのです。
二代目学主の中井甃庵以降は、中井家の関係者が学主・預り人を就任することになるので、私塾的な性格もあったように見えます。
誓願寺の説明資料にあった中井家略系図が歴代学主・預り人の説明にもなるので、それを参考にすしたいと思います。
私の仕事柄、相続関係説明図を作ることがあるので、その要領で少しアレンジし引用させていただきました。

「懐徳堂」は、学舎のあった地名にちなみ別名「今橋学校」とも呼ばれ、現在の中央区今橋四丁目(旧尼崎一丁目)にありました。
初期の頃の建物は寛政4年(1792)の大火によって類焼したのですが、図面は大切に残されていたようなので、今でも当時の学舎の様子を知る事ができます。
懐徳堂絵図屏風
「大坂尼崎町一丁目学校類焼前之図」をCADで描き写してみました。
かなり乱雑なものですが、なんとなく当時のキャンパスライフの雰囲気を感じていただけたら幸いです。


懐徳堂旧阯碑は現在日本生命本社ビルの南壁面にありますが、これは昭和37年(1962)にビル新築に伴って移転された場所であり、本来の「懐徳堂」校舎跡ではないそうです。
懐徳堂旧阯碑
碑文右側に記された由来
碑文は漢文で刻まれており、私にはほとんど読めませんので、湯浅邦弘教授編著「懐徳堂事典」より引用させていただきます。
懐徳堂は一に大阪学問所と称す。享保十一年、甃庵中井先生、同志五人と官に請いて此に創建せるものなり。石庵・蘭州・春楼・竹山・履軒・碩果・寒泉・桐園の諸先生相継いで学を講じ百四十余年を経たりしが、明治二年堂廃せられ鼓筐(こきょう)の迹(あと)を絶ちしこと四十余年なりき。大正五年士人胥謀(あいはか)り東横堀川の上(ほとり)に重建し、古を参じ今を酌み弦誦復興せり。是に於て石を旧址に樹て後人をして矜式(きょうしょく)する所有らしむ。 大隈西村時彦撰 浪華中井天生書 日本生命株式會社建
由来にも記された「大阪文教の中心」であった「懐徳堂」。
その「懐徳堂」の学問は何か?
高名な研究者が今もそれを追及し続けているわけでして、私ごときが理解する事は不可能です。
また、140年余りの歴史があるので、教えていた学問の傾向も時代により変化していたようです。
朱子学を基本としていたようですが、初代学主の三宅石庵は雑学的傾向があり、「鵺(ぬえ)学問」と揶揄されることもあったようです。
その初代学主の雑学的傾向が影響したのか、それとも商都大坂の気風なのか、「懐徳堂」は朱子学に固執せず、合理的思考で諸学の長所を柔軟に取り入れる自由な学風を形成していました。
そして、何より特筆すべきはその学則です。
定約や定書や壁書と称された学則に相当する規則からは、江戸時代とは思えない先進的な思想が窺えます。
例えば、受講生の受講料は五節句ごとに銀一匁または二匁と定められていたのですが、貧苦の者は「紙一枚、筆一対」でもよいという緩やかなものでした。また、書物を持たない者も聴講を許されていました。
現代の義務教育制度や高校無償化制度に通じるような、この教育に対する責任感はすごいと思いませんか?
席次については、武家は上座と規程していますが、但し書きで、講義開始後に出席した場合は、武家と町人との区別は無いとしていたのです。
厳しい身分制度の江戸時代に、このようなことが許されたというのが驚きです。大阪だから特別だったのでしょうか?
商人は利益を追求するので、どうしても悪く言われがちです。
厳格な武士の時代である江戸時代などは、それこそ批判の的だったでしょう。
しかし、その商人がこれだけ熱心に学問の場を盛り上げたのは、算盤勘定だけでは商売は成り立たないと考えていた証拠だと思うのです。
自らを学問で律し、庶民にも学問を通じて広く倫理道徳を学ばせようとする大坂商人の自主自立の精神は、現在のこの国の商人には受け継がれているでしょうか?

「懐徳堂」は、初代預り人であり二代目学主中井甃庵の2人の子供、竹山・履軒の時代に黄金期を迎えます。
その黄金期は、江戸幕府官営の昌平坂学問所と並び称されたそうです。
中井竹山は学主・預り人として表舞台で活躍し、二歳年下の弟中井履軒は研究者として独創的な研究を生み出していきました。
この2人は、多くの著作物や資料を今の世にも残してくれています。
儒学だけでなく、政治、経済、文学、果ては天文学に至るまで幅広い分野の学問を追及していたようです。
中井竹山が学主兼預り人に就任した後すぐ、あの「白河の清きに魚も住みかねて~」で有名な松平定信が老中首座に就任するのですが、その松平定信が来坂した際、中井竹山に諮問をしているのです。
そもそも幕府の老中が、半官半民とはいえ実質民営の市井の学者に諮問するということ自体異例中の異例でして、そのことが当時の中井竹山の評判がいかに高かったかを物語っていますね。
その諮問を中井竹山が「草茅危言(そうぼうきげん)」という本にまとめ、松平定信に献じたことにより、寛政の改革に多大な影響を与えたと言われています。
そして、門下からは近代的英知として高く評価される「夢の代」を著した山片蟠桃が出ています。
あの大塩平八郎も「懐徳堂」で中井碩果から句読(くとう)を学んでいたとのこと。
門人だけではなく交友も含めると、江戸時代の知のネットワークの中心と言っても過言ではない存在がこの大阪にあったという事実が、江戸中心に歴史を見ていた私に鮮烈な印象を与えてくれます。
「雨月物語」を著した門人の上田秋成が、「胆大小心録」という随筆で「懐徳堂」で学んだ体験をまとめているのですが、面白いことに、竹山・履軒のことを強烈に貶しているのです。
「今の竹山・履軒は、このしたての禿じゃ」(今の竹山・履軒は、この人五井蘭州が仕立てたこわっぱじゃ)
「竹山は山こかしと人がいふ。山はこけねど、こかしたがった人じゃ」(竹山は山をこかすほどの人物と言われるが。奴が山をこかしたなど聞いたことがない。)
などと色々悪口を書いているのです。
この上田秋成は、竹山・履軒と机を並べて「懐徳堂」で学んでいたので、2人の名声を妬んだというよりも、同級生に対し互いに笑える毒を吐いたのかも知れませんね。

幕末の動乱期、ロシア軍艦ディアナ号が和親条約締結を求めて大阪湾に入港するという事件がありました。
その際、「懐徳堂」学主(教授)の並河寒泉と預り人の中井桐園が幕府の命により、ロシア側と漢文で筆談交渉をしているのです。
このような未知との遭遇に際してお呼びがかかるということは、幕末においても大坂の知の最高峰が「懐徳堂」であると幕府が認識していた証拠ではないでしょうか。
そのような「懐徳堂」も終焉を迎えます。
明治維新は新たな時代の幕開けでありましたが、同時に旧来の学問文化の継承には大きな打撃となったのです。
明治2年、「懐徳堂」最後の学主(教授)並河寒泉は「出懐徳堂歌」と題する歌を門に貼り、「懐徳堂」を去りました。
「懐徳堂」が閉校してから40年後の日本は、西洋文明を上手く取り込み繁栄していました。
しかし、その陰で精神的な支柱も見失いつつあったようです。
そういった危機感から、「懐徳堂」で講じられていた倫理道徳の復活を目指して中井家子孫の中井木菟麻呂(つぐまろ)らが運動し、大阪の財界言論界の支援により復興へと動き出したのです。
大正2年(1913)に財団法人懐徳堂記念会が設立されました。
発起人には、当時の大阪府知事や大阪商工会議所会頭の土居通夫、住友銀行社主の住友吉左衛門、鴻池銀行社主の鴻池善右衛門等錚々たる顔ぶれが並んでいました。
大正5年には東区豊後町(現中央区本町橋のマイドームおおさか)に重建懐徳堂という学舎が建てられ、そこで大阪市民のための講義が行われたのでした。
残念なことに、この重建懐徳堂は大阪大空襲によって焼失してしまいました。
しかし、書庫は焼失を免れ、その中に収められていた貴重な蔵書約3万6千点は現在大阪大学で大切に保管され研究が続けられています。
平成12年(2000)には「懐徳堂」資料の電子情報化が始まり、現在もデータベース化の努力が続けられているそうです。
懐徳堂記念会HP


懐徳堂旧阯碑付近図

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